ガリラヤ湖をイエスと共に進む弟子たち。
激しい突風が起こり大波に襲われています。船は浸水し転覆しそうです。
弟子たちは混乱し、死の恐怖が頭をもたげてきて、神は自分たちを恵んで
くださる、導いてくださる、守り用いてくださるという信仰が揺すぶられています。
マルコによる福音書4章35節~41節
この弟子たちとここしばらくの私は重なるのです。
私たちは人間のいのちは大切なものであり、それは全くの無条件で、だれの
どんないのちも大切と信じています。このことを伝えようとしています、
いのちが大切にされる文化を作ろうと取り組み、実現しようと働く人々を
支援してきました。このことはイエスが教えてくださった神のこころであり、
私たちへの招き、期待と信じてきました。
ところがここしばらくの間に起こった事件で、私は揺すぶられる思いでした。
IS(イスラム国)は自分たちの要求を実現するために拘束していた二人の
日本人を殺害しました。日本政府は命を救うために2億ドルを支払うことよりも
違う対応を取りました。ヨルダン政府は報復の空爆を実行しました。
人間の命が軽んじられる現実に私たちは取り囲まれています。
人間の命が何よりも優先される、という私たちの信じていることは、
おかしいことでしょうか、限定的に通用する場合があることで、
けっして普遍的ではないということでしょうか。
私の信が揺すぶられる思いです。
そして人間の命を軽んじる人間による行為は昔から現在まで途絶えること
なく、いったいどれほどの人間が人間によって命を奪われていったことか。
私たちの信はかつてから脅かされていたのです。
私の信が揺すぶられるのは、世界中の人々のこころが
「隣人は愛する、しかし敵は憎む、敵は壊滅せねばならない」ということに
捕えられていくのではないかという不安があるからです。
人類があまたの戦争の惨劇、破壊と悲惨を経てたどりついた真実は、争いは
暴力、武力で解決はできない、話し合いと和解の道を探ることだということだった
のではないでしょうか。暴力は暴力を産み出し、報復は報復の連鎖を産み出して
きたのではないでしょうか。人間の命を何よりも大切にすることで、愚かしい正義の
戦争を回避することができるのです。
現在この人類がやっと得た真実が脅かされている。
ガリラヤ湖の弟子たちへ与えられたイエスのことば。
「なぜあなたたちは臆病なのだ。まだ信がないのか」
私たちは現在(いま)あらためて立つべきところに立ちたいと思います。
人間がたどりついた真実は、「人間の命が一番」ということです。
そしてこれは神のこころであります。放蕩に身を持ち崩した弟の生きて在ることが
何よりも貴重なことなのです、1時間しか労働しない者にも生きていくことに必要な
ものは全て備えようとされる、それが人間に対する神のこころです。
「あなたたちの敵を愛せよ、そしてあなたたちを迫害する者らのために祈れ。」
敵も迫害者も私たちと同じように親がおり家族がおり、生まれ育った環境があり、
それだから暴力行為の理由を持ち、そして将来への可能性が、私たちと同じ
ようにあるのです。
「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分が何をしているか、わかって
いないからです。」
ルカによる福音書 23章34節
十字架上からのイエスのことばです。
人間は争い、憎しみをどうしたら、友好と和解に変えることができるのでしょうか。
怒りと暴力による抵抗に結びつく火をどうしたら消すことができるのでしょうか。
私は、富の分配、教育と医療の普及、世界から飢えの克服、清潔な水の供給、
権力の独占をしない、お互いの尊厳と自由意思を尊ぶ、にちからを注ぐ文化作り
だと思います。
我が国の政治、私たちははこのことで世界に貢献したい。
「自分は何をするといいのか」が分かっている私たちになりましょう。
大波に襲われていくことでしょうが、私たちはイエスとともに、
イエスによって示されている、それは人間がたどりついた真実でもある
人間の命とそのいのちを支えている自然の生けるものを大切にして、
人間に命を軽んじる大波の中を漕ぎ抜けていこうではありませんか。
2015年2月9日 石谷牧師記
私たちのいのちを二通りに活かすことができるのではないでしょうか。
一つは動物と変わらないいのちとしてです。衣食住を確保しこれに支えられ、
自己実現の欲望・願望にちからを注ぐ私たちです。
もうひとつのいのちは、他の人間の幸いが実現されるために、自分は
何ができるだろうかと考える、そして自分のできることに取り組むいのち
です。自分と他の者との間に平和と和解を作り出そうとするいのちです。
私たちのいのち、このふたつの活かし方のバランスはどうでしょうか。
たやすいことではありませんが、目指すは後者の活かし方も「わが内に在り」
といきたいものですね。わたしはこのふたつのバランスが良いいのちが
新約聖書に出てくる「永遠のいのち」ではないかと考えています。
そして現実の生活のなかで「永遠のいのち」をしなやかにさわやかに生きる
ことでは、自分の「自由」を受けとめ直すことが深く関わっていると思います。
どうぞ聞いてください。
永遠のいのちとはどういういのちかを語るのに、たとえば
スケアクロウという映画にこんな場面がありました。
寒風の中、ヒッチハイクの車にどちらが先にありつくかと競争
している二人の男。
大柄な方が煙草に火をつけたいのにマッチがありません、そのとき、
小柄な男がマッチをすって煙草に火をつけてやります。
マッチ箱の中の最後の一本をごく自然に使って。
永遠のいのちは死んでから獲得するようなものではありません。
現在、こうして生活しているただなかで永遠のいのちを生きることができます。
自分も生きるが彼も彼女も生きてもらおう、と願いそれを実行するいのちが
永遠のいのち、なのではないでしょうか。
隣人を大切にするのが永遠のいのちです。
だから、寒風の中の二人は、まず小柄な男から、自分のいのちを
永遠のいのちへと受けとめ直し、それからもうひとりの男がそのいのちを
分かち合ったのです。
ありがとう、そして、ほほえみ。
それから二人の悲しみと喜びを共感する旅が始まります。
このたびの「シャルリーエブド」事件。
わたしにとって、享受している「自由」について考えることに
なっています。
私たちは良識としても、イエスの教え、パウロの勧めからも
知っていることがあります。それは、「自由」は、自分が自由を
駆使することで、もしも誰かの身体や心を傷つけるようならば、
その自由を使ってはならないということです。
自分の言動が、相手にはどう受け止められる、受け止められたか、
が自分の主張・釈明より大事なのです。
パウロによってイエスをキリストとする信仰に導かれたコリント教会の
メンバーは自分たちに備えられている自由に目覚めました。
人間にはイエスを殺し神を呪う自由が与えられている、そしてそのように
人間は振舞っている、が、そのような人間が赦されているという驚くべき福音。
人間とは何者か、驚くべき恵みの充満に生かされて在る人間、
この福音に目覚めて人はコリント教会を作りました。
神の恵みわれにあり、私たちはゆるされているという真実に生かされよう。
ところが、ある者は何を食べてもいい、どんな食べ方をしてもいい、
と仲間を待たずに食べ始め、仲間が食べれない食材をこれ見よがしに
食べる始末。このありさま、他人事ではないでしょう、備えられている
自由の使い方が未熟なのです、幼稚なのです。
歴史を省み、人間の世になぜ戦争は尽きないのでしょうか。
私たち人間はどうしたら平和を作れるのでしょうか。
信仰、思想、信条、生活習慣から始まって個性に至るまで、
同じ人間はいないのです。そうした異なるものを持ち合わせて、
人間が集まっているのが家庭、教会、社会、国、地球なのです。
自分の尊厳・利益を大切にするだけではなく、自分とは異なる
隣人の尊厳を具体的に護っていくことが平和を作ることなのです。
戦争の歴史が私たちに教えていることです。
自由を、自分の思いを実現するために使うと同時に、
他者の幸いを実現するために使うのが、
戦争の歴史をいやというほど知る人間ではありませんか。
この点で私たちは歴史に学び大人にならねばと思うのです。
他者にとっては好ましいことでなければ、あえて自由を行使しない。
争いの種は蒔かないのです。
私たち人間は「自由」を使うまえに、
「愛」「隣人への愛」に踏みとどまることだと私は教えられます。
パウロはそのように諭しました。そしてその原点はイエスの生涯、
その究極の最後のエルサレムの日々です。
自分を殺そうとする者に助命嘆願の工作をするか、
あるいは逃亡するか、私ならそんな選択もありかと思ってしまう危機です。
もしあなたが追い込まれた状況にいるその人イエスならどうしますか。
神を呪うことのできる自由を与えられている人間イエスは、
でも神から離れることなく、なぜわたしを見捨てられますかと神に祈り、
わたしのおもいではなくあなたのおもいがこの身になりますようにと
祈ったと記されています。
神のおもいとは、イエスにとっては、いと小さき、弱い、神さえ呪う人間、を
たいせつにする、眼をかける、抱き寄せる、愛でした。
この神の愛をおもうて慕って、イエスは自分の「自由」を受けとめ直していく
ことを最後まで貫いたのです。
私たちもこれに倣いたいのです。
自分も生きるが、隣人はなおさら生きるように、とのおもい・意思を持つ人間が
作る国はまさに神の国です。神の国を、どこか遠くにあるものではなく、
私たちが今、現在、ここに作るのです。
『麦の種が地に落ちて死なないなら、それは一粒のままで残る。
だが、もしも死ぬなら、多くの実を結ぶ。自分の命に愛着する者は、
それを滅ぼし、この世で自分の命を憎む者は、
それを永遠の生命にまで護ることとなる。』
ヨハネによる福音書12章24節・25節(岩波訳)
私は一粒の麦のままでいいと決め込めば、この現実のもと私の
周りの悲しむ人、寂しい人、生活に苦労する人の状況は変わらない。
自分の自由にのみ愛着するのではなく、むしろそれを離れ、
他の者を活かそうとするなら、あなたは永遠のいのちを生きる、
そればかりか、その他の者も永遠のいのちを共に生きるとの招きが
聞こえてきます。
ご一緒に自分たちの自由の受けとめ直しに踏み出しましょう。
私たちの自由は自分の尊厳だけではなく、
隣人の尊厳を護ろうとする自由でありたいのです。
私たちの自由は隣人への「愛」によって生まれる自由でありたい。
2015年1月15日 石谷牧師記
礼拝堂アデルフォイのそばに咲いた蝋梅(ろうばい)の小さな花です。
思わず香りを確かめたく近づきました。寒さはまだしばらく続きますが、
春の気配は感じられます。読者のみなさまの身近なところでも同じで
しょうか。
「シャルリーエブト」事件をどう考えればいいのか。
イスラム教徒が大切にしているムハンマド(マホメット)の「風刺画・記事」に
ついて見ていない読んでいないのですが、そして暴力でもってそれに
対する抗議、不満を表明することにも、もちろん反対する私ですが、
「風刺画・記事」がイスラム教徒にとっては暴力行為になるのではないか、
という気持ちになるのです。
自分がして欲しくないことは相手にもしない。
キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒、信仰を持たない者、世界に
さまざま信仰を持つ者がいます。その人々が平和を分かち合い享受して
いくために大切なことは何でしょうか。
イエスを自分のキリストと感じているキリスト信者にとって、もしも、
執拗に不快な表現でイエスを風刺する画や記事が発行されれば、
その意図は何かと、マスコミと社会に不安を感じることでしょう。
信仰、考えの違う者たち、自分とはまったく異なる信条を持つ者たちで
作り合っているのがこの社会、世界、人の世です。
少数者と多数者という関係もあります。
大切なことは、ひとりひとりが、
自分にして欲しくないことは相手にもしない、ことを大切にして、
その上で「表現の自由」「出版の自由」を駆使して、
この世界に生きる者、同じ人間たちの平和を作り出すことはないでしょうか。
暴力による抗議を否定しつつ、このたびの「シャルリーエブト」事件を
考える私です。みなさまはどう思われるでしょうか。
2015年1月14日 石谷牧師記
2015年が始まりました。佳い一年にしていきたいと思います。
このホームページ上での交流をよろしくお願いいたします。
みなさまにお送りさせていただいた私の2015年の年賀状は、
次のような文章でした。
新年あけましておめでとうございます
ことしもどうぞよろしくお願いいたします
♪ 去年のクリスマスは国境近くの村で過ごしました こんな処にもサンタ
クロースはやってきます 去年は僕でした 闇の中ではじける彼等の祈り
と激しいリズム 南十字星 満天の星 そして天の川
診療所に集まる人々は病気だけれど 少なくとも心は僕より健康なので
すよ 僕はやはり来てよかったと思っています 辛くないといえば嘘にな
るけれど しあわせです ♪ 『風に立つライオン』抜粋
2015年を迎えることができました、新しい気持ちになって一日一日を
歩んでいきたいものです。『風に立つライオン』は、私の時々、無性に聞きたく
なる歌となっています。「わたしはしあわせです」と喜べるしあわせに
出会っていく、何が自分のしあわせかを知っていく、そんな2015年を
明るい朗らかな気持ちで過ごしていければと思っています。
この一年のご健康をお祈り申し上げます。
2015年1月3日(土) 石谷牧師記
今から40年前のクリスマス主日は12月22日でした、私の受洗記念日です。
なぜ、洗礼を受けたのか。社会人になることを考えるころになって、
自分は人の幸いに用いられるようになろう、というような気持ちが与えられ、
そのように導かれたのが学校と教会でのキリスト者との出会いと、教会での
聖書の学びによることが大きいと感じ、その感謝と決意表明のような気持ちで
洗礼を受けることにしたように思い出されます。私は19歳でした。
それから40年たっても聖書を読みながら、イエスの弟子でありたいと願って
の生活をしているのですが、それはどうしてなのか。私の経験は、
マリアの夫、イエスの育て親とされているヨセフの物語と重なります。
どうぞ聞いてください。
(マタイ福音書1章と2章から)
そのときのヨセフのまなざしは水平方向でした。自分と周りの人間たちしか
視野にいません。周りの者たちは、道ならぬことをしでかした結果のマリアの
妊娠としか考えないのです。そんな不品行なことは許されない、しかるべき
罰を与えねばならない。周りの者たちは、そのように考えることだろうとヨセフは
思いました。そして自分も、婚約者マリアに裏切られた怒りと悲しみにおちいります。
自分の中にある正しさの基準からもマリアを受け入れることはできない。
けれどマリアとその胎に宿った命に対して、自分はマリアとの縁を切ることで
良いのだろうか、マリアと胎の命はどうなるのか・・・ 悶々とした時間が流れます。
自分の中にある正しさを求める思いと、マリアを守ってやりたいという
愛の心が葛藤して、晴れやかな気分で日を送れない、救われないのです。
のちにヨセフは、その地域の王様ヘロデの権力にものをいわせた暴力行為に
直面します。ヘロデもまた水平方向の視線に終始した男です。自分と周りの人間しか
眼に入りません。新しい王となる男の子が産まれたと三人の博士から聞いたヘロデは
不安になり晴れやかになれません。自分の利益にならない者はつぶさねばならない、
自分を中心にして周りの人間を、利益になるか、不利益をもたらすかに分けるのです。
ヘロデはいつ自分を脅かす強敵が出てくるか、絶えず見張る緊張した日々、
晴れやか気分では日が送れない、救いがないのです。
人は水平方向の視野に見えるものだけによっていては、平安はないのではないか、
救われないのではないか。
ヨセフにはことばが与えられました。マリアの胎に宿った命は、やがて人間を救う者になる、
恐れずにマリアを妻としなさい。その時まで水平方向の見えるものの中で悶々としていた
ヨセフは、この外からの、上からのことばと言いましょうか、このことばによって惑いない者に
変貌することができたのです。すぐにマリアを妻とし生まれる子を守りました、ヘロデの暴力が
迫ったときには、ふたたび与えられたことばに従い妻子を守ってエジプトに逃げました。
「この子は人間を救う者になる」のことばに生かされて、その後の行動に、ヨセフは不惑、
惑いなし、です。
ユダヤに新しい王、人間を救う王が産まれた、
と星に導かれて東方の国からやってきた三人の博士たち。
かれらの視線も上方、天に向いています。星の導きに信頼して平安な旅をしてきた
博士たちは、最上の宝物をイエスに捧げてふたたび平安と喜びの内に自分の国への
旅を続けます。
近視眼的なことに明け暮れし眼の前のハエを追い払うのに苦労する私たちです、
だからこそ時には大空、星空を見上げ、大きな雄大な不思議に満ちた宇宙と人類の
誕生のなかで自分たちの生きていることを思うことをしたいな、
私たち安らかになって日常に戻れるのではありませんか。
ヨセフは自分に与えられたことば、博士たちとの出会いによって、
神は人間を愛し、ともにいようとしてくださる、ということを知ったのだと思います。
神われらとともにいる、そしてそのわれらとは、惑うヨセフであり、あのヘロデあり、マリアであり、
三人の博士であり、・・・1時間しか働かない者、放蕩に崩れた者、その姿をさげすむ者、
迷い出た羊のようなありさまの者、思慮浅い者、配慮のできない者、
自分のことしか考えない者、律法を守る者、守っていない者・・・
すべての人間とともに神の愛あり神はおられる。
そして、ヨセフは自分の最良の宝物、こころとおもいとちからを尽くして、
神の人間を愛する働きに加わる人間になった、惑いなく参与する人間となった。
私はこのヨセフの物語に自分を重ね合わせるのです。
私が自分と周りの人間だけを見つめていけば、自分のなかには、自己嫌悪、
情けない自分、いたらない自分、多方面で欠けを持つ自分、それでいて、
良く生きたいと願っている自分があって悶々として、自分はなんとみじめな
人間なのだろうと(ローマ書7章)、どこか晴れやかに朗らかになれないのです。
他の人間を見ても、みな欠けを抱えているにもかかわらず自由を持っており、
その自由を使って自分の欲望の実現を追求し、人を殺害することさえする
と、どこか人間不信であり誰もは愛せないという、とらわれは尽きることはないでしょう。
たとえば、このたびの衆議院選挙の結果に、私は国民、この社会、世相に
対して残念さ情けなさを、まず感じました。選挙にいかない有権者を責め、
福島原発事故の体験が続いているにもかかわらず、原発再稼働を進める政党に
どうして投票するのか、自分の脱原発の願いのなかでの悶々なのです。
しかし、私たちは、自分と他の人間だけを見ることで、悶々とし、心萎え、
失望していくような状態を突き抜けたい。人間を愛する者でありたい。
自分を含めて、欠けを抱えて生きている人間みなが「愛されている」
「赦されている」、人間の救い、幸いと平和を作り出そうとする神の働きに加われと、
みなが招かれているのだ、という立ち位置にどんなときも戻りそして立ちたいのです。
力づくで、あなたは愛されている、許されています、と言い聞かせることはしません。
強制されて、自分は許されている、愛されている、と信じ込まなくていいです。
でも私はこの40年間、自分のしたことしなかったことを、人たちに許されてきたこと、
ひとたちの善意と配慮、導きを受けたことを振り返ります。
私は人たちの許しと配慮のなかで、私と人間に対する神のゆるしと愛を感じ
信じるようになったのです。
そして40年の間に確信のように示されていることは、
「人間は誰もが欠けを持って在る。
しかしそれは神の愛の中に受けとめられていること。
神にとってはその欠けある人間が大切なのだ。
人間を大切にする神の働きに加わる者となれとの招きあり。」
私は、みなさんひとりひとりが大切な存在であることを、
ことばと行いによって証し続ける者でありたいと願っています。
神はあなたを愛されている、神は人間を愛されている、
神はわれらと共にあり、というクリスマスのことばのなかに
あなたがいます。
2014年12月22日 石谷牧師記
広島平和記念大聖堂のクリスマスを告げる人形たち
2014年もクリスマスの季節となりました。ご無沙汰を重ねております、
いかがお過ごしでしょうか。寒ければ寒いほどあたたかさが嬉しくなり
ますね、あたたかなクリスマスと年末年始をお過ごしになられますよう
にお祈り申し上げます。
(私の近況)このたびの衆議院選挙の結果にがっかりしています。
しかし一方で次のような思いでおります。
最初のクリスマスの日から現在まで、クリスマスの主人公のイエスは
「愛」となって、世界各地で働いている。泣く者と共に泣き、喜ぶ者と
共に喜ぼうとする人間、悩む友を忘れずその話に深夜になっても耳を
傾けていた人間、助けを必要としている人々の声が政策にならない
ことがいつまでも続く現実においても、希望を次の世代に引き継ごうと
する人間の「愛」となって生き生きと働いている。争い合う声は尽きる
ことなく、不安な世相に心が萎えることは続いても、この「愛」は今日も
世界中で燃えています。希望とみなのしあわせを求める思いを
2015年にも繋いでいきたい。
ひろしまからあなたの心身の健やかなこと平安をお祈りします。
またいつかお会いできることを願っております。
2014年12月17日 石谷牧師記
17日(水)朝の広島市東区の牛田山です。昨晩からの雪は今日一日
降り続ける予報となっています。雪の多い地域のみなさんは雪かき、
道路の歩行、買い物、通勤時間、寒さ対策、などなど、雪の中で生活を
続けて行くことでたいへんなエネルギーを使っていることでしょう。
けがなどありませんように、ご自愛なさってください。
さて、14日の衆院選挙の結果には落胆いたしました。
しかしがっかりする一方で、わたしたちの取り組むことが改めて示された
という思いです。
落胆のひとつ。
低投票率には、野党に責任がある、選挙の争点は多くの国民も
感じていることでわざわざ投票すべきことではない、などとの説明が
ありますが、私には、根底には国民のなかに政治の担い手は国民で
あるという意識、そして投票という行動でその政治を自ら作っていくのだ、
という精神文化の未成熟さがあるように思います。
自分の利益、幸せだけではなく、社会全体の、これからの世代の
幸いを作っていく政治を自分たちが作っていくという精神文化。
私たちは自分たちの生活と政治を結び付けて考え、投票を通じて
その意思を表していくことが市民生活の当たり前の雰囲気になっている、
そんな家庭、教会、地域、地域が集まった社会、国作りをしていきたい
ですね。この雰囲気作り、精神文化作りには長い時間と幾世代かの経験が
必要かもしれません、すでに世界中の先達たちによって始まっている
ことでもあります、私たちも心新たになって加わりましょう。
私と同じようにこのたびの選挙結果にがっかりされている方もおられる
かもしれません。めげないでください、やるべきことが示されています。
2014年12月17日(水) 石谷牧師記
明日、寒さに雪が加わった地域に住む方々は外出しづらい
ことでしょう、一日のどこかで投票所に行くことができますように。
先日、新聞記事の中から次の言葉を見つけました。
「有権者は自らの社会的立ち位置をリアルに認識しよう。」
同感の思いです。
自分が中間層か貧困層か。
働いて働いて家族を養い子どもを進学させたいなら、
将来設計できる正規雇用を大切にする政治が
欲しいです。
私は次の世代に対して自分にできることは何か、ということに関心を持っています。
その一つは、地震と大津波と台風と火山噴火の日本列島に原発はないほうがよい、
次の世代には原発ではないエネルギーを渡そうということです。
私は、「ひとたび事故あれば人体に悪影響を及ぼすほどの核の利用は
しない」と思っていますので、このたびの投票は次の世代に対しての
立ち位置を考えて投票します。
あなたは、どんな立ち位置でしょうか。その立ち位置からどんな政治を
望まれるでしょうか。
法律を作れる人間の持つ権力は私たち市民のいのちとくらしに大きな
影響力を持っています。
権力を託せる人間・政党を選ぶ権利を大切に使いたいと思います。
お勧めのユーチューブです。
「菅原文太 沖縄知事選挙」で検索すると、文太さんの遺言のような
10分ほどのメッセージに出会いました。
私はしびれました、ぜひ一度ご覧になってください。
2014年12月13日(土) 石谷牧師記
12月9日の明け方に、私は夢を見て目が覚めました。こんな夢でした。
ひとりの人が釣り糸を垂れています。
私には水中にいるものたちが見えるのです。
水中には、龍、とら、ワニ、へび、熊、ライオン、サメ、
ともかく人間を襲って心臓を食い散らすような恐ろしい動物たちが
うごめきひしめき、いつでも水中から躍り上がって人間を襲うようなのです。
ひとりの人は水中のことは何も見えず、能天気にのんびりと釣り糸を垂れているのです。
なんにも知らないで食べられるのを待っているというような釣り人なのです。
その人はわたしのようにも見えるのです。
なぜそんな夢を見たのか。
たぶん・・・。
12月に入り衆議院選挙の予想を伝える報道にイライラしていました、
前日の8日は真珠湾奇襲攻撃による日米戦争開戦に関する記事を
読み、国の権力者の無謀な暴走をゆるしてしまった国民のありさまを
現在の世相にあてはめ、なにやら暗い気分でした。
国民よしっかりしようよ、というような気分が入り混じった、イライラです。
私は、地震と津波と台風と火山噴火が今後もいつ襲ってきてもおかしくない
日本列島に「原発」は危ないと思います。
あれほどの、そしていつ終息するかも分からぬ福島原発事故を経験した
私たちは、「再稼働」ではなくて別のエネルギーを求め、得ることのできる
エネルギー量に即した経済活動・生活に変わりたい。
巨大なる、人口、その面積、経済力、食糧供給量、核兵器、資源保有量を
持つ国との付き合い方は、お互い戦争はしたくないのだを基調にして、
争いの種を作らない、争いの芽は外交努力で摘む、日頃から友好関係を
深めるに徹してはどうなのか。
国全体のことを考えて行動する人々の層がだんだんと薄くなってきた、
富裕層は現状を肯定し、厚くなった貧困層は今日一日の衣食住に悩んでいる。
このイライラを突き抜けたい。
晴れやかな気持ちになって、自分の仕事に取り組むようになりたい、
クリスマスのメッセージを聞きたい。
次回のアデルフォイの風では、
どんよりとした雲を突き抜けて明るい太陽と青空の光景をご一緒に見たい。
時間をお取りしました。
お読みくださりありがとうございました。
12月10日(水) 石谷牧師記