お知らせ

ブロッコリの花が咲いています

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   長く楽しませてもらったブロッコリも終りのようです。いま小さなうす黄色の

花が咲いています。私には始めて見るブロッコリの花です。

 

              2015年4月14日   石谷牧師記

イースター礼拝メッセージ(要約) 「ガリラヤ」の豊かな意味

 マルコ福音書14章26節~28節。

 イエスの弟子たちは強くないのです。イエスの側近中の側近として右と左に

置いて欲しいと直談判したヤコブ・ヨハネ兄弟、イエスからリダーとして認められた

ペテロをはじめとして、全員がイエスが捕えられる場から逃げていったのです。

 私たちはどうでしょうか。自分が不利益を被るかもしれない、関われば今までの

ようには生活できなくなる、面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ、と思ったことからは、

逃げる、避ける、離れる、関わらない。私は中学生のころ意地悪な眼つきをした者たちに

取り囲まれていたおさななじみをとうまきにしていた者の一人となった自分の姿を忘れたことは

ありません、その時私は涙を流していました。

それから現在まで、イエスの弟子たらんと心に決めてからも、幾度となく私は自分かわいさから、

いくつかの場から逃げてきたのです。

そこにいた人がいます。まだそこにいる人がいます。だから私はできるだけ長く生きて少しは

人たちに喜びと笑顔が生まれることに用いられたいのです。

エデンの園にて禁断の木の実を食べて隠れたアダム、ペテロは私の姿でもあります。

 

 自分を優先することは個人のレベルにとどまらないように思います。

日本国は戦争相手国であった米国、軍事力で紛争を解決できるとする米国の同盟国となる

選択をしました。ロシア、中国から国を守れるとますます同盟に深入りしていこうとしている。

しかしこの選択はアジアに緊張と不信を増す危うい選択なのではないかと私は不安なのです。

日本国の利益のために、どこから離れどこに身を置くか。

自分が大切な人間とそのような人間の集まった政治の選択は同質になるのです。

 

 でもそれでいいのか。それだけでいいのか。そのようにみなが生きることで何が起こるか。

 

 逃亡してしまった弟子たち。イエスを裏切ってしまった自分の姿に激しく泣いたペテロ。

この弟子たちがふたたびイエスの弟子たらんと行動を起こします。何が弟子たちに起きたのか、

それが弟子たちにおけるイエスの復活です。

 みなさんは「復活」をどう思っていますか。

 

 イエスは自分を捨てるであろう弟子たちに、

「ガリラヤに先に行っているぞ、後から来なさい、ガリラヤで会おう」と語りかけます。

 弟子たちは「ガリラヤで会おう」と自分に向かって言ったイエスを思います。

「ガリラヤ」は自分のふるさと、生活の場。そこに生きる者たちの中には、喜びと笑いがある、

一方で差別、さげすみ、疎外、病気、仲間はずれ、自分をいちばん大事にする人間たちが作る

人の世。そこでイエスは「迷い出た一匹の羊を探す羊飼い」「放蕩に崩れた息子が無事に戻って

来たのを喜ぶ父親」「短時間しか働かなかった者にも相当の賃金を渡す雇い主」のたとえに、

だれもが大切ないのちとして愛し恵み導こうとする愛の神の姿を込めた。

そして友のいなかったザアカイの客となり食べ飲み語り合った、その食卓は入場自由、病気、

貧困、孤独、自分探し、求道者、それぞれの悩みを抱えた多くの者たちが集まってきた。

そしてみんなが何かを得て、来たときよりも明るくなった、笑う者もいた。ひもじさから腹を満たした者もいた。

 「サマリア人のたとえ」もあった。関わりたくないできごとを避けて生きることでいいのか。人間の生きる場を

そんな考え方、生き方で満たしていいのか。生きる姿勢としては、試みるべきは、それが十分できない

にしても、自分を愛するように隣り人も大切にすることなのではないか、とイエスは願った。

 

 ガリラヤ、イエスが実現しようとしたそのようなガリラヤの人間の生きる場。

そこで会おう、とは、逃亡してしまった自分へのゆるしと一緒に実現しようという招きなのではないか、との

思いが弟子のこころに充満してくる、それは確信になってくる、まるでイエスが直接に自分に語りかけてくる

ようだ。不思議なことですが、弟子たちに生まれたイエスの復活、だったと私は思います。

 そして、私にもイエスのことばとふるまいとが大きな導き励ましとしてわが内に脈打つのです。

私は周りの人たちを大切にしていきたい、そして同じくらいに私たちの日本社会を「愛の文化」と

「自分たちの生きる場をみなにとって幸いな場にしていくのは自分たちであるという文化」で満たしたいと、

このごろ深く切実に思う私はガリラヤのイエスによって生まれたのだ、そんな気持ちになるのです。

 

 あなたにイエスが復活しています。

あなたは自分を大切にしたい、そして家族をはじめとして周りの者を大切にしたいと思っている、

それはイエスのこころでもあります、イエスがガリラヤで一番大事にしていたことです。

人を大切にしたい、この気持ちは「愛」ですね。

 こどものころ遊びほうけて約束した時間に遅れて帰宅した私を、両親は叱るのではなく、心配したよ、

無事に帰って良かったと迎えてくれました。相手の非を責めて自分の気持ちを満足させるのではなく、

無事を喜び合う、これはわたしが両親から学んだことです。この学んだことを自分も同じようにしていきたい

と思うときに両親は私のうちに復活してきます。愛こそがイエスに繋がることです。

 あなたには愛がある。あなたのうちでイエスが復活していると、私は感じています。

 

                 2015年4月13日   石谷牧師記

 

 

 

種と地のたとえについて

 マルコ福音書4章3節から9節のたとえを読みながら考えました。

私にとって種はあの敗戦の体験とそのあとの70年の日本社会の歩み。

現在(いま)この種が蒔かれています。

 

 あの敗戦の体験。

敗戦で痛切に感じたこと、戦争はいけない。ちからで自分の利益を追求しても

憎しみと争いが生まれ人間の死が引き起こされるだけだ。政府、政治、軍の指導者は

必ずしも国民本位には動かなかった。

 

 この体験の種が国民に蒔かれて70年、種はどうなったのでしょうか。

たとえには種が育たない、道端、石地、茨の中がでてきます。

私はこのごろの、敗戦という体験が私も含めてまだまだ国民生活のなかに活かされていない、

と感じるようになりました。たとえば70年をこう言っても少しは言い得ているのではないでしょうか。

 

 経済的な繁栄、お金持ちになるために持てるものを総動員して資源と安価な労働力を求め、

作ったものを売りつけて利益を獲得してきた。その結果は、一部の者はぜいたくに暮らし、

多くの者は貧困に苦しむ世界と日本社会の現実。

 70年間、とにもかくにも親米路線、かつ国民主権ではなく国民統制国家主義に向かって

歩んだ政治と政府。親米である限り米国政府は日本政府と日本の政治家を手離さない、

米国政府を後ろ盾にすることを選んだ政治家は安泰、長期政権はいまだに続いている。

 少しのぜいたくとすこしの貯金ができた者は、敗戦の体験から教えられたことを

忘れた、子どもに伝えることもしない、歴史から学ぶことを放棄、思考停止。政府のしてくれる

ことに間違いなしと安全神話に浸りきる。

 

 私はあの敗戦という種は日本社会にいまだ十分成長しているとはいえないと思います。

だからこれからのことです。 現在、種は蒔かれようとしています、もう一度。

種はあの敗戦の体験とこの70年間の私たちの日本社会の体験、ふたつがひとつとなった

種です。

 この種を育てたいのです。

このままでは私たち国民は危ういと感じてます。武力で自国の利益を追求してきた米国との

同盟を強固にするだけで良いのか。私たちは自分はどんな生活をおくりたいのか、そして

明治以降、日本がしてきた戦争によって国民生活はどうなったのか、一人一人がまじめに

考えて考えたことを社会生活の中に反映させていく努力をしなければと考えるのです。

 

 地には種が育っていく良い地もあるとのこと。

これが希望です。

70年経ったこれからのときは、種が大きく成長して実を結びますように、

まずあなたと私良い地にしてくださいと求めましょう、

良い地が起こされることに用いてくださいと求めましょう。

 

                   2015年3月31日  石谷牧師記

 

水仙の花

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           アデルフォイの庭に咲いた水仙です。

 私たちが植えたのではありません。風か鳥が運んでくれました。

花が咲くまで分かりませんでした。不思議なことではなくて、むしろ

私たちの生活は自分の予定にないこと思いがけないことの連続でした、

アデルフォイの庭もそうなのでしょう。

 

         2015年3月24日      石谷忠之

 

こどもたちに安心を贈りたい

 

 

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 大地震・大津波、福島原発事故から4年の昨日、

私は「福島原発告訴団事務局」の方のお話をお聞きすることが

できました。その方が語られたことは岩波新書

『原発と大津波  警告を葬った人々』(添田孝史)でも読むことができます。

その方は体調不良を訴えるこどもについても触れました、体調不良と放射線による

被曝との関係は不明である、証明されていないとの医師、行政の姿勢によって、

体調不良はこどもと家族で受けとめざるを得ない現状とのこと。

被曝は細胞分裂の活発なこどもに影響が出やすい。1ミリシーベルトを超える

放射線量のなかで4年間暮らしているこどもたち。

ああ、こどもたちに安心を贈りたい。

 

 夕方、私は山口県上関に原発を造ろうとする中国電力に「造らないでください」

と訴える市民デモに参加しました。写真はデモ出発前の集いです。

 

                   2015年3月12日  石谷牧師記

3月のメッセージ(要約) 「分け合うことは幸せです」

 もしあなたが、現在(いま)

 「あなたは自分のしていることが分かっていない」と誰かに向って言えるならば、

誰に対して言いたいですか。

そのときの、あなたにとって、その人が分かるべきこと、なすべきことは何でしょうか。

あなたにはそう言う理由と願いがあることでしょう。

 

 さて、イエスの語ったことばにも「あなたは自分のしていることが分かっていない」が

あります、今日はこれを参考にして私たちの分かると良いこと、行うと良いことを分かち

合いたいと思います。

 

 イエスはこのことばを弟子であるヤコブとヨハネに向かって言っています。

ヤコブとヨハネは兄弟です、イエスに直談判のようにして自分たちを

イエスの右の座と左の座、つまりはイエスの次に権力を持つ者にして欲しいと

願い出たのです。(マルコによる福音書10章35節~45節)

 マタイ福音書では、この場面に兄弟の母が加わって、母親が願い出たように

なっています。母は強し、母が息子たちの名誉と権力を願い出たというわけです。

 一方これを知った残りの弟子たちは猛烈に憤慨します。自分たちを出し抜いて、

師であるイエスに地位、権力について直談判するとは・・・。

 

 イエスはまずヤコブとヨハネの兄弟に対して

「あなたたちは何を願っているのかわかっていない」と語り、

(でもこのことばは兄弟だけではなく他の弟子たちにも語りかけられていると思います)

そして、弟子全員を集めて、世の支配者は力(ちから)を使って支配しているが、

あなたたちは仕える者になれ、しもべとなれと諭すのでした。

 

 弟子たちは集団・組織の中で少しでも高い強い地位を実は求めていたのです、

権力欲とでもいうものが巣くっているのです、マタイが母親を登場させているのには、

この権力欲には男も女もないという示唆があるように読み取れます。(マルコ9:34)

権力欲、言い変えれば力(ちから)を持つことに信頼を置く生き方が、

ある歳月をイエスと共にいても、弟子たちの中に強く強くあるのです。

 

 この力(ちから)に信頼を置く生き方、在り方は私たちにもありますね。

 私は最近大人たちが集まって心からやすらぐ雰囲気を体験しました。

それはおさな子を囲んだときのことでした。大人たちが小さな子を愛(め)でる

こころで共感して楽しいなごやかでおだやかな雰囲気なのです。

男も女もなく、なにをしているかも関係ない、ある者が力でその場を

牛耳るということもない、ただおさな子をかわいいと感じ愛でるこころで

作られた雰囲気です。ちからとはほど遠い者を一番にする、ちからの支配のない

世界、イエスの指し示す神の国はこのようかと感じることです。

(マルコ福音書9章36節以下)

 

 ところがこのような力の支配の対極に生まれる雰囲気を感じるのは

残念ながら、そして将来が不安なのですが、まれなことです。

私たちにもある力に信頼を置く生き方は、たちどころに、

私たちを力にしか信を置けない生き方に押しやります。

そして自分が健康、学歴、経済的豊かさ、地位、名誉、欲望を満たすことを

得たいと思うなら、それを増やしたい保持したいと思うなら、そのために

力を持つことを追求し、その力を行使するようになります。

 豊かさがひとつなら、それを獲得するために他の者より抜きん出ようと激しく競争し、

邪魔する者、足手まといになる者は、取り除くのです。所有するものを増やすためには

自分よりも豊かに持つ者からだけではなく、少ししか持たない者からも奪い取るのです。

自分の利益にならない者と決めればそんな者には関心を持たないのです、

生活のレベル分けを勝手に作り出し、貧しい者の存在は、その存在すら視野に

入ってこないのです。

私は極端でしょうか、この世にはないことを言っているでしょうか、

いいえ、現在この世界でいまなお続いている現実ではないでしょうか。

 

 イエスは弟子たちに、仕える者となれ、しもべとなれと願いました。

仕えるということ、しもべとなるということは、わたしたちには具体的にはどのようなこと

でしょうか。

 私は自分の育った家庭の食卓を思います。父と母と私たち四人の子ども、

合わせて6人で囲んだ食卓、それは分け合って食べ合うことを続けた食卓でした。

父が家族を威圧してまず自分の食欲を満たすということは一度もありませんでした、

母はみなに公平に電気釜からごはんを分け、お鍋から味噌汁を分けました。

食べるものを家族で分け合って生活したことで、私は体と心、情操を大きく成長させる

ことができたように思います、感謝しています。

 

 私はこのごろ、仕える、しもべとなるということを、善きものをみなで分け合うようにすると

言い換えてもよいと思っています。分け合うことには、愛があります、いたわりがあります、

時には奉仕があり、また時には犠牲を引き受けることがあります。分け合うことは、

力(ちから)ではなく愛によって生まれ、愛に信を置くことであり、愛が鍛えられ、

そうすることで愛が他の人間を動かし、愛の交流が生まれていくのです。

 

 私たちに示されている、わたしたちが分かると良いこと、行うと良いことは、

権力・ちからを求めるのではなく、仕えること・しもべとなること、それは、

善きものをみなで分け合おうということではないでしょうか。

 教育、医療を受ける機会を地球上のすべての子どもたちが分け合う世界、

生存に必要な食べ物と新鮮な水を地球上のすべての人々が分け合う世界を

望みて、私たち自らがまず善きものをみなで分け合う者になりましょう。

 

 そうです、現在(いま)私たちは分け合うことができていないのです。

ちから、武力にものいわせて一部の者たちが善きものを独占ししているのが

この世界の現実であります。善きものを獲得しようとして紛争が起こります、

これが国家間でしたら強い武力を持つ国が、武力による威嚇又は行使により、

国際紛争を解決しようとします。かつてわたしたちの国では、政府の行為に

よって戦争の惨禍が起きた、という痛切な歴史があります。

私たちは武力で国際紛争を解決しようとして、しかし失敗、誤りを続ける

国に従うことしてはならないと思います。私たち国民の運命を武力に頼る

国に預けることは危険です、そうではなくて、隣国、アジアの国々、世界の

国々の人々と善きものを分け合うようにするのです。

  私たちがイエスから教えられること、そして戦争の歴史から教えられることは、

人間は、力ではない、武力ではない、分け合うことで幸福を得ることができる

ということです。

 

 私たちがこれから「あなたは自分のしていることが分かっていない」と誰かに向って

言う時には、今日教えられたことを参考にしようではありませんか。

 

                   2015年3月10日   石谷牧師記

 

 

 

 

 

アデルフォイの庭に花が咲き始めました

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 アデルフォイの庭に花が咲き始めました。写真は8日の礼拝の午後に

撮影したもの。 新聞を読んでいると勇ましいことが盛んに語られて、

それを憂う気持ちがつのるのですが、新しい季節を告げてくれた花を

見ていると一隅での働きを続けようとの思いになりました。

 礼拝のあとは世界平和記念聖堂で開かれた、小出裕章さんの

福島原発事故から4年を省みる講演会。私には確認し共感すること大きい

講演でした。

 

        2015年3月9日       石谷牧師記

 

原爆ドームの「今」

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 原爆ドームは幾度も保存工事がなされてきました。何かが風雪に耐えて

もちこたえるためには、わたしたちの不断の努力によって、これを保持しなければ

ならない、原爆ドームが証ししています。 日本国憲法はどうであるかと思います。

私もあなたも当事者になる雰囲気を作っていきたいですね。

 

 写真は2015年3月4日撮影

 

 

          2015年3月5日    石谷牧師記

鳥を養うことができました

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 寒い冬が終り、ようやくアデルフォイの菜園で何かができそうです。

体験して分かることですが、野菜は苗植えから収穫までの時間が長いもの、

短いものとあるのですね。秋に植えた、にんにく、たまねぎには収穫まで

まだしばらくの時間が必要のようです。

 写真は、ブロッコリ。ある日、たくましくあおあおと大きかった葉は残らず

見事に大型の鳥の餌になりました。見ていないので、ひよどりには悪い

のですが、ひよどりかもしれません。不思議なことに「実」は残っています。

 

          2015年3月4日  石谷牧師記

2015年2月、3月、4月、5月の集会案内

 先日、いい言葉に出会いました。

「われわれが進もうとしている道が正しいかどうかを、神は前もって教えて

くれない。・・・・・・・・・それでも永遠なるものに関心を抱くのがいちばん

いいでしょう。というのは、それのみが、人間社会に平和と平穏を回復させる

精神の源だからです。」 (J.メイヤー編 アインシュタイン150の言葉)

 永遠なるものとはなんだろうか、と思います。

それは私たちの一人一人のそばにすでにあるように感じています。

たとえば私なら「生きているようで生かされて在る自分だった」も、

永遠なるものに含まれています。感謝に導かれます。

 

2015年2月から5月までの集会案内です。

この寒さはもうしばらくのことでしょう。背筋をくっと伸ばして深呼吸、

元気に過ごしましょう。3月から5月までの集会の予定をお知らせします。

主日礼拝 午前10時30分~

◎アデルフォイ 

2/1, 2/8, 2/15, 2/22, 3/8, 3/15, 3/22, 3/29,

4/5, 4/12, 4/19, 4/26, 5/10,

5/17, 5/24, 5/31

4月5日はイースター礼拝です。

受難節3月29日~4月4日 受難日4月3日

ペンテコステ礼拝5月24日

◎アデルフォイアシュラムを月曜日に変更します。

午前11時からです。沈黙と黙想、共同の祈りと対話のひとときです

2/9, 2/23, 3/9, 3/23, 4/13, 4/27,

5/11, 5/25

◎土曜日集会   3/7, 4/4, 5/2,

◎読書会毎月1回 日程は石谷へ問合せください。

◎石谷牧師ジュノーの会への協力日 毎月第2、第3土曜日

◎私たちの教会のホームページでは折々のニュース、

礼拝メッセージ(要約文)などを掲載しています。

周りのみなさんにぜひご紹介してください、よろしくお願いします。

http://tadayuki76.sakura.ne.jp

「広島メノナイトキリスト教会」でも検索できます。

 

           2015年2月11日  石谷牧師記

 

 

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