大学入学は知識と知恵を得ることを保証するものでは、ありませんでした。
求めるこころが必要だったと思います。
優れた技量を持つ師匠に弟子入りすることが、自分の技量を高めることの
保証には、ならないことを痛感しています。練習に練習を重ねて、体得するだけです。
キリスト教だけではないと思いますが、宗教に入信することは、問題の起こらない生活、
安心で満ち足りた生活を保証する、ものではありません。
私のことで言えば、キリスト教の洗礼を受けて40年、洗礼を受けることは、悩みに直面しない
保証を得るようなことでは、ありませんでした。ですが、自分を元気づける、立ち上がらせる
岩清水を飲むようなことがあります。
新約聖書 マルコによる福音書4章35節~41節。
イエスと同じ船に乗り込んで勇んで漕ぎだした弟子たち、漁師出身の弟子は誇らしく櫓をこぐ
ことだったでしょう。ところがどうしたことか、突然に嵐が起こり、波はさかまき船には浸水が始まり、
このままでは沈没してしまう・・・・。
イエスがともにおりながら、どうして悩み、危機に直面し、なすすべもないような状態になるのか。
イエスを信じることは、安心、安全を保証するのではないのか。
宗教に帰依(きえ)することは、現実生活での安心、安全を保証するのでしょうか。
旧約聖書の信仰の人々。アブラハムの外国で生き延びていく上での苦労、ヤコブの伯父さんの
もとで味わう悩み、ダビデ王の栄光に差し込む影。新約聖書のイエスの歓迎と敵意のふたつを受けた生涯、
パウロのエルサレム教会と異邦人の地で作られた教会と結ぼうとする涙なしには語れぬ苦労、
キリスト教会歴史上に起こったできごとを思い起こしてください。
ところが、この悩みと不安のさなか、
「インマヌエル」「神がわたしたちとともにいます」ということばが、しずかに聞こえてくるのです。
イエスを信じている、宗教を信じていることは、安心、安全、豊かになること、満ち足りることを、
保証するのではない、
そうではなくて、不安を感じる時、悩みの時、どうしていいか分からない時、「わたしに聞きなさい」
「わたしのもとにきなさい」、「わたしはあなたに必要なことを語る」「行う」、ということば、呼ぶ声が
聞こえてくるのです。
不安、悩みの時、私たちは、だれに、その悩みと不安を打ち明けますか。
だれに、その解決を求めますか。
沈没しそうな船のなかで、弟子たちは、イエスに対して、自分たちのどうすることもできない状態をさらけだし、
なんとかしてほしい、自分たちはどうしたらいいのか、と激しく問うたのです。
私はこの弟子たちのイエスに立ち向かう姿勢に、私たちにもあるといい「信仰」があると感じたのですが、
イエスは弟子たちに「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか。」と語ります、
イエスが「わたしのお父さん」と呼んだ神に抱いていた「信仰」とはどんなだったのでしょうね。
いま、あなたはどんな不安を抱えて生活をしていますか。
私も不安を抱えています。健康寿命でもって長く長くみなさんと交流し社会を見つめていけるだろうか、
そういう生活を支える経済的基盤をどう確保していけばいいか、という「個人生活上の不安」。
そして「社会に感じている不安」、これは個人の基本的人権が巧妙にあからさまに軽視されるように
なってきた昨今の政治、社会的風潮、そして私たちを支える・セーフティネット・社会保障が十分でないことも
原因と思う暴力行為の蔓延、このような状況を生み出している私もその一員であるこの社会の精神文化。
不安を抱えているのであれば、イエスに問うてみましょう。
彼は、見ること、触ることはできませんが、私たちにはその生涯と言葉とがあります。
彼を思い浮かべれば、小さな声を聞くことができます。 「先ず、イエスに問え、イエスに聞け。」
「あきらめる」は「明らめる」、明るくさせる、はっきりさせる、ですね。
私の不安へは、イエスからこのような声が届きました、はっきりさせられた気分です。
長く健康寿命を保ちたいなら、自分のできる範囲で心身に良いと自分が思うことをすればいいのです、
経済的基盤のためには、心身に無理ない労働を続ければいいのです。
社会に対する私の不安の内容は、イエスも解決できなかった、現在までも解決できないでいること。
ただ、聞こえてくるイエスの声があって、「一人の人間を尊重しその尊厳を守ることを自分は行った、
次の世代に引き継いでもらうことを自分は願った、そして営々と引き継がれてきているではないか。」
私もこの営々と続く人々の列に加わればいいのです。
あなたに不安があるのならば、あの弟子たちのように、「先ず、イエスに問い、イエスに聞く」ことだと
思います。
2014年10月22日 石谷牧師記
1923年9月1日関東大震災のあと、フランス駐日大使クローデルは、
「大津波、台風、火山の噴火、地震、大洪水などたえず大災害に
さらされた日本は、地球上の他のどの地域よりも危険な国であり、
つねに警戒を怠ることのできない国である」と述べたそうです。
(毎日新聞2014年10月4日(土)朝刊余録)
記憶し感じたこと知ったことを、生活に活かし続けることは誰にとっても
たやすいことではありませんが、阪神淡路大地震、東北大地震大津波、
広島土砂災害、御嶽山噴火…日本列島には100年単位、1000年単位、
1万年単位で、大自然の営みとしての動きがあるのだと思います。
多くの人たちが命を失った事実に心が痛みます。懸命に続く御嶽山での
安否不明の方の捜索活動、この方たちが早く家族の元に戻されていくことを願います。
この大自然の営みは私たちには、「災害」であっても、あるいは「想定外」と
したくても、それは当の日本列島の大自然からすると、あること、なのだと
痛感した2014年の8月9月となりました。
このことを私たちの生活に活かしたいと思います。
どう活かすことができるのでしょうか。
危険をいちはやく察することに努める、そして逃げる、避難することは
そのひとつです。このたびの土砂災害のあと、広島県では市町村の首長
による防災研修会がありその一部が報じられました。
「空振り三振でよい」しかし「見逃し三振はすまい」これは避難勧告、避難指示を
ためらうなという内容での言葉です。命がかかっているのです、逃げて、何もなかった、
でいいのです。避難を始めるレベルを今までよりも下げて、今までは「大げさ」だった
レベルからにする、ということにこれからはするでいいのだと思います。
それにしてもと考えます。
「危険に満ちた日本列島」に原発はあっていいのでしょうか。
私たちの生きている間は事故は起こらないかもしれない、しかし、日本列島では
いつ、何が起こるかわからない。原発が稼働すれば廃棄物もたまる一方である。
人間の健康を損なう放射線を出して稼働する原発を次の世代の人たちの暮ら
しのただ中に残していいのか。
私たちは日本列島の営みから何を学んでいるのか。
広島では毎月第1と第3金曜日の夕方から、市民有志によって原発の廃棄を求める
市民デモが続けられています。私は改めてこのデモに参加し続けようと思います。
アデルフォイの庭に秋の訪れの花が今年も咲いてくれました。
「ほととぎす」です。はなびらがホトトギスの腹の斑紋に似ているでしょう、
日本列島の豊かな自然は季節の花を私たちに贈ってくれますね。
その豊かさのなかには「危険もちゃんと含まれてある」のだ、
ことしはそのようなおもいでこの美しい「ほととぎす」の花を
みる私です。
2014年10月7日 石谷牧師記
「わたしを大切にしてください」とみな願っているのです。
この気持ちを分かってくれる方だと感じたからこそ、病人も、生活に苦労する者も、
身内のいやしを願う者も、社会から疎外されたような者も、孤立を覚える者も、
イエスのもとに寄ってきたのです。
ある日は、子どもたちと親たちでした。(マルコ福音書10章13節から16節)
「こどもたちを祝福してください。」
親たちのまなざしの中には、子どもたちの健やかな成長を思う自分たちの
こころに、イエスよ、あなたのこころを合わせてください、
こどもたちのこれからの日々に、神よ祝福を与えてください、と祈ってほしい、
との願いがありました。
「イエスよ、わたしたちを大切にしてください」との願いです。
「わたしを大切にしてください」は、いま、ここで生きている私が、それを聞きとる
ことのできる耳と、見てとることのできる眼と、感じとる心をもつならば、
わたしのそばに、もうだいぶ以前から、いままさに、立っているのだと思います。
私たちは鈍感なところがあると思います。
イエスの弟子たちがそうでした。こどもたちをつれてきた親たちを追い払おうと
しました、目が見えずものごいをしていた人が「イエスよ、わたしをあわれんで
ください」と叫んだときには、叱りつけ黙らせようとしました。(マルコ10章48節)
隣人のこころの奥底にある、もうこらえきれずに叫び出る、
「わたしを大切にしてください」に、鈍感なのは弟子たちだけではありません、
わたしも鈍感であり思い及ばせることができないのです。
日本の各地で起きる事件、事故の報道は絶えることはありません。
一人のいのちが本当に大切にされている記事には、慰められたり、
共感し励ませられたり、歩む方向を示されたりします。
他方で、「わたしを大切にしてください」との思いが受けとめられず、
恐ろしい凄惨な犯罪に暴走していったこどもたち、おとなたち、年寄りたち、と
感じる記事を毎日のように読むのです。
私を含めて人たちにいったい何が優先されているのか。
世間体、世の常識、長いものには巻かれろ、自分には関係ない、
自己責任、自分は忙しい、自分には何もできない、自分の欲望を満たしたい・・・ 。
認めましょう、あるのです、私たちは人を大切にできない理由を
抱え込んでいるのです。自分を他人を責めるのではなく、認めましょう。
そして肝心なことがあります。
そんな弟子たちが最後までゆるされて、
心配りを受けて、イエスに従うことができたのです。
ひるがえってわたしたち、どれほどに出会った人たちから、
この鈍感さ、思慮の足りなさ、愛の欠けたることを赦されてきたことか。
感じた者たちから、感じたときから、始めようではありませんか、
わたしもあなたも、福音書のイエスのようにはいかないでしょう、
しかし、指し示されているのです。
人はみな「わたしを大切にしてください」と願っているのです。
応えていこうではありませんか。その気持ちに、その身体に、わたしたちの
せいいっぱいのあたたかな手を、今日からでいいのです、
手を差し出し始めようではありませんか。
2014年9月23日 石谷牧師記
2014年の8月は、みんなのいのちを守るために、
わたしたち市民はどうしたらいいのかを考えることに
なりました。
8月6日ヒロシマ、8月9日ナガサキ、
日本国民、アジアの人たち、連合国の兵士たちにとって
あまりにも遅すぎた8月15日敗戦日、
ハマスとイスラエルとの戦争そしてガザ地区に
流される市民の血、終らぬイラクの惨状、続くシリア内戦、
世界各地でかろうじて命をつなぐ人々、対馬丸撃沈から70年、
福島県では18歳以下296000人から57人の甲状腺癌・
46人が甲状腺癌の疑い・・・、・・・そして広島土砂災害。
戦争、暴力の応酬、憎しみの連鎖、新たに作られる
戦争の火種、私たちの都合で名づけられる異常気象、
各地で続いて発生する自然災害。
私たちが信じている大いなる方はどこにおられるのか。
この問いへの「自分の経験(いま・ここでのこたえ)」を
それぞれに持っておきたいと思います。
私は、私たちがイエスによってしめされ信じている方が、
あの大地震・大津波、自然災害を引き起こしているのではなく、
また、戦争は人間の仕業・繰り返される過ちであり、
私たちが信じている方は、その惨状のただなかに在って、
はらわたをちぎるほどに嘆き苦しみ泣き、その惨状のただなかで
人間のいのちが救われることのために働く者たちとともに働いて
いる。だから私たちは惨状が生まれぬ文化を作りたい、現に
いまある危機に瀕した命を救いたい。
私はこのように考えるのです。考えるだけではなくて、
神と共に働く者でありたいのです。
8月、気持ちを重くする新聞報道が続く中、
それでも私たちの現実に希望を感じる記事をいくつも
読めたことは幸いでした。その中から、8月24日朝刊に
見つけた写真を紹介します。上は広島土砂災害・避難所で
折り紙をボランティアと折る子どもたち、下はみんなの
楽しみの場所動物園の動物たちを守るアルヒシさん。
(2014年8月26日 石谷牧師記)
(8月24日(日)主日礼拝は20日に発生した土砂災害によって
被災された方々を想って礼拝を捧げました。)
私は11歳と2歳の兄弟の葬儀の様子を伝えるテレビ放送を
悲しい気持ちで見つめていました。子どもを失ったご両親、
兄と弟を失ったまだ小さな少年の心境を推し量ることはできま
せん、言葉を見つけ出せませんでした。そして、
ひつぎを乗せた車に向って同級生、サッカー仲間の子ども
たちが号泣する姿に、私はおもわずもらい泣きしたことでした。
「泣く者と共に泣きなさい」(ローマ人への手紙12章15節)。
悲しみ嘆き涙にくれる人のそばに私たちのこころを置くことが
できればと願います。
そして、そうするなかで、わたしたちへしめされること
を感じたら、それを実現するために行動を起こそうではありませんか。
聖書箇所としてルカ福音書7章11節から16節を選びました。
イエスが過ごしたナザレから、南西に位置するナインという町、
そのナインに宣教の旅の途上で到着したイエスは、
一人息子を失い葬りに出す寡婦(やもめ)と
付き添う人々に出会ったのでした。
イエスはやもめを見て、彼女に対して腸(はらわた)がちぎれる
想いに駆られたとあります。はらわたがちぎれる想いということば
(splanchnizomai)は、イエスが人たちにどのように接したかを
考える際に意味深いことばだと私は思っています。イエスが、
目を見えるようにしてくださいと願った二人の盲人に対したとき、
飼う者のない羊のように弱りはて倒れている群衆を見たとき、他で
のイエスのこころを表すことばとして使われています。
悲しみ苦労し涙する者への深い同情をよせるイエスは、
はらわたがちぎれるような想いとなり、そのなかで
彼、彼女に対する自分のできることをしめされていくのです。
そして実現に努めるのです。このようなイエスから、
悲しみ苦労する者は、そのとき必要とした生きていくための
励ましを得ることができました。
私たちにはそれぞれにしめされること、うながしがあることでしょう、
声を掛け合いながら、助け合いながら実現していきましょう。
早速に私たちの県外の友からこの礼拝堂に寝泊まりしてボランティア
をしたいという嬉しい申出がありました。
この友の行動に私たちも精一杯加わっていきたいと思います。
土砂災害に遭われた方々、いま救援に入っている警察、消防、
自衛隊の方々、この働き人を送り出している家族を覚えて祈りましょう。
(2014年8月25日 石谷牧師記)
五月ころからアデルフォイの庭の一角を耕し、石を取り除き、
有機肥料を入れたり、生えた草は穴を掘ってその中に埋める
ことをずっと続けました。
ゴーヤ、オクラ、ししとう、ねぎ、の苗を植えるときは、友人の
助言に従って、穴を掘りその中に有機肥料と腐葉土を入れて
混ぜ、そこに苗を植えました。追肥も一週間ごとくらいに。
そんなことを続けているうちにだんだんと野菜を育てる土が
できたのでしょうか。8月に入っても収穫があり、アデルフォイに
集まるみなさんへのいい「おみやげ」になっています。
私たちが願っている「いのちが大切にされる社会」は、
いのちを大切にする文化、平和文化をさらに作り続けることで
実現していく。私は8月のアデルフォイの菜園で汗を流しながら
自分の取り組む仕事を示されています。
(2014年8月18日 石谷牧師記)