お知らせ

わたしたちはどんな日本を作ってうこうかなあ

     わたしたちはどんな日本を作っていこうかなあ
おさなごの ああちゃんは、どんな日本で大きくなっていきたいのかなあ
青年の すうさんは、どんな日本なら自分の夢を実現していけるのかなあ
おとなの もうさんは、どんな日本にしたいと思っているのかなあ
からだとこころの調子を良くしたいと思っている ようさんの望んでいることはなんなのかなあ
外国籍の たあさんが願っている日本社会とはどんな社会かなあ
おとしよりの ふうさんは、日本がどんなになることを願っているのかなあ
日本のまわりの国のひとたちがわたしたちに望んでいることはなんなのかなあ
うふっ
そう
そう
笑顔をたやさないで わたしは ことばの種を蒔こう
みんなが たがいに応援し合えるように わたしは ことばの種を蒔こう
      2022年2月18日金曜日     石谷忠之牧師記

私の宮島弥山(みせん)での定点観測

 11月3日に宮島弥山(みせん)に登りました。

登りは紅葉谷コースで2時間、下山は大元公園を目指して1時間。

昼食は、駒ヶ林の一枚岩の上で。コロナ感染しない・させないと心がけた楽しい山歩きでした。

 毎年11月3日の弥山登りを―私が大学教育現場に勤務していたころ、学生のみなさんと

切磋琢磨できる職場に異動した20年前に始めた―私は昨年に比べて自分の体力は

どうなっているかをチェックする定点観測としていたのですが、体力チェックにとどまらないものがある

ことに気付きました。

 弥山登りの事前のことでは、今年も登るぞという気力、乗り物の時刻を調べてみなさんに

ご案内するという企画力、安全に登り降りする体力と注意力、予定外のことへの対応力。

これらが、昨年に比してどうなっているか、つまりは元気に自宅を出て無事に帰宅できるか

という「総合力」を実はこれまで試していたのだと気付いたのです。

そして、今年もなんとか大丈夫、でした。

 

 ところでこの「総合力」を私はどのように養っているのだろうかと考えます。

 

 なんの本で読んだかは忘れてしまったのですが、

高齢者の身体と認知機能の低下を「フレイル」というのですが、

評論家の樋口恵子さんが三つ「ショク」を大切にしましょうと書いていました。「食」と「職」と「触」です。

「食」。食べることは生きるちからになりますから、基本中の基本、私たちは日頃から大事にしています。

私の食が大事にされて今があります。誰かのように時々食べ過ぎ飲み過ぎになってはいけないでしょうが、

楽しく栄養あるものを美味しく十分に食べたいですね。

「職」は「仕事」。台所仕事でもお裁縫でもお掃除でも私のような冬の寒い間の窓の結露拭き、山登りでも、

アタマ・脳とからだに適当なストレスがあり、実際の動きがあります。しかもやり遂げた感・達成感がありますね。

組織で働くことはなくなっても、生活者であろうするならば、仕事に尽きることはありません、

感謝です、嬉しいことです。

 「触」。これは誰かとのやりとりです。この点で私は自分がたいへん幸いな者と感じています。

こうしてみなさんに通信を出すこと、主日礼拝でみなさんにお会いすること、ズームを使ってのイエスの譬え話に

ついての語らいで、参加のみなさんから自分とは違った受けとめをお聞きすることなどなど、

だれかとのやりとりによって、私の学ぶことに終りがありません、感情が動きます、そして孤立を感じないでおれます。

(やがて、生かされてきた地上の歩みを、ひとりで終えるという孤独は、養いたいと思っておりますが。)

 

私の弥山登りで感じた「総合力」は、三つ「ショク」に因っていると言っても良いかなと思います。

 

この定点観測の機会を長く続けます。登り降りの両方をこなす体力がなくなったら、

どちらかをロープウェーにしてもいいです。そのあとは両方ともロープウェーになるかな。

この場合は「総合力」のなかの「柔軟力」が発揮されるのです。

 

              2021年11月11日  石谷牧師記

 

90年前の9月18日

 90年前の9月18日、
その10年後には太平洋戦争にまで拡大してしまった満州事変が始まる(1931年9月18日)。
中国・奉天、現在の瀋陽・柳条湖、日本の軍隊である関東軍は日本の経営する南満州鉄道の
線路を爆破。関東軍は、これは中国軍による爆破だとして武力攻撃を開始した。
私たちの国のアジアでの立ち位置に深く関わるできごとが起こされた日であると私は思う。
 私の今日思うことです。
「他人の宝を無理やりに奪って、自分の所有する宝を増やしていく。」
「やがては奪ってくる集団が、政治を社会を牛耳るようになる。」という歴史を学び続けること。
 学びながら挑戦するのは、他者の宝を奪って豊かになるという暴力と独善への睨みを怠らず、
自分も他者も生存するための協調と相互協力である。このような私たちの家庭、教会、
市民社会を作っていきたいですね。
                2019年9月19日     石谷牧師記

SDGsで生活を続けたい

 8月から9月にかけてなんとさまざまなできごとがあったことか、と指を折ると、オリパラリンピック、
管首相退陣表明、タリバン政権復活とその中で中村哲さんらが始めたペシャワール会関係者に
よる現地灌漑事業・医療活動の再開、
引き続くコロナ禍とこれによる様々なできごと・・・、9.11あの惨劇から20年・・・。
 しょうしょう気持ちが晴れやかにならない日々、
『12歳までに身につけたいSDGsの超きほん 監修/蟹江憲史 朝日新聞出版』という読み物に
明るい気持ちになった私です。
 17の持続可能な開発目標SDGsの実現することだけではなく、SDGsを共有して目指すことそのことが、
人間を含めて地球に生きる生類(しょうるい)の希望だと思いました。
SDGsは世界標準とされて、
私たちの生活のあちらこちら、ひんぱんにおりおりに、やがては生活においてごく普通のことになると
いいと思います。
 その担い手は私たち。この本には、今までにしてきたこと、今日から始めれることが紹介されています。
                        2021年9月19日   石谷牧師記

深紅面目27 「私とabbaおとうちぁん」

 

???????????????????????????????

     今年も礼拝堂にアガパンサスの花が咲きました

 

読者のみなさんへ

 いつもお読みくださりありがとうございます。ある日の礼拝説教を掲載します。

        「私とabba・アバ(おとうちゃん)」

         聖書箇所:ガラテヤ書4章1節~7節

お願い:実際に聖書箇所を開いて、ゆっくりと読んでいただければ幸いです。

 

 「おとったん、こわーい!」

井上ひさし原作『父と暮せば』のなかの、冒頭のことばです。

「おとったん」ということばから、娘の美津江と父・竹造のあいだにある信頼と愛情の

交流が伝わってきます。この竹造との関係があるからこそ、それがささえとなり、

ちからとなって、被爆者である美津江は、生き残ってしまったという心のきずを

抱えながら、新たな人生の旅立ちを始めることができるのです。

 

 「おとったん」と、まさに全くの同質の感情を乗せて、イエスが口に上らせたであろう

とされているのが、「abba」(アバ)です。abbaとは、「おとうちゃん」とでも訳せる、

子どもが父親に対して呼び掛ける、当時のユダヤ人が日常的に使用したアラム語の

言葉です。

 そしてユダヤ教徒であるイエスの直弟子たちにとって、信仰の対象であるヤハウェを

abba・おとうちゃんと呼ぶことは、信仰の覚醒たる衝撃であったのでしょう、

イエスの教えの重要なことになったのでしょう。集い、教会のなかで言い伝えられるべき宝、

みなで共有する喜ばしい福音になったことでしょう。だから、十字架以前のイエスを

知らないパウロにも、しっかりとこのabbaは伝えられています。

 パウロは紀元54年頃に執筆したガラテヤ書4:6、紀元55~56年頃に執筆した

ローマ書8:15でabbaを、地中海世界・ヘレニズムの共通言語ギリシャ語で訳すると

pateru父の意味、を付記して読み手に紹介しています。

パウロいわく私たちにはこ、の方のこどもとして、abbaと呼べる霊が与えられている、と。

 

 いったいイエスはどんな状況のなかで、abbaと言っていたのか。弟子としては、

第二世代か第三世代なるマルコは、イエスの直弟子たちが伝えたであろうabbaを、

マルコ福音書14章36節で紹介しています。イエスがゲッセマネでこのabbaを使って

祈っています。なぜイエスは、神の名前である固有名詞ヤハウェでなく、普通名詞で

神の意味のエロヒームでもなく、abbaを使ったのでしょうか。それは、イエスにとって

自分が信じている存在と自分との関係は、親密なる親子の関係だったから

なのではないでしょうか。その強い結びつきをエロヒームでは、そしてヤハウェでも、

言い尽くせなかったのではないでしょうか。

捕縛され殺害される恐怖の状況下、「abbaおとったん・・・!」、イエスが切実なる

気持ちを託した呼び掛けです。そしてこの関係があったからこそ、イエスは祈りから

立ち上がっていったのです。

 

 ところが、ペテロやパウロらのあとの、第二世代、第三世代の弟子たちは、

このabbaを気にいらなかったようです。マルコ(紀元70年代)までは、

abbaにpateru・父よ、が付記されていますが、

マタイとルカ(両福音書とも紀元80年代執筆)はなんと、abbaを削除し、

pateruのみにしています。イエスに由来すると思われる伝承が、早々に消えていく、

なんともったいない残念なことでしょうか(マタイ26:39節,ルカ22:42節)。

新約聖書の他の文書にabbaはありません。

 

 なぜ、このようなことが起きてくるのでしょうか。私のこれまでの見聞から考えるに、

ユダヤ教徒ではない異邦人(私たち日本人も含む)に対して、イエスのことを

伝えようとするときに、あまりにユダヤの地にしかないローカルに過ぎること、

あまりにユダヤ教過ぎることは封じ込めて、むしろ、どんな人間にとっても、

どの地域であっても、通用する、標準語的、普通名詞的なことが

大事にされていくのではないか。また、キリスト教はユダヤ教とは違います、

と主張していくならば、いかにもユダヤ教の香りが残ることがらや言葉は

使われなくなるのではないか。私のこれからの研究課題のひとつです。

イスラエル・ユダヤの一言語であるアラム語のabbaは、キリスト教会第二世代、

第三世代のころ、キリスト教会の宣教のことばが作られる過程で消えたのです。

 

 私自身は、このごろは、自分が信じている方―あの十字架上のイエスとともにいて、

イエスの歩んだ道こそわが意志として、人間を憎むのではなく、むしろ最後まで苦しみと

悲しみのうちに、イエスとともに人間の拒みを受けとめ赦した方―に祈るときに、

イエスに倣って、「abba」と自分の祈りを始めています。

 そして実感していること。それは、abbaとの関係だけではなくて、

私と私の周りの‐人間を含む‐いのちとの間に、生きて在ることの喜びを交流できる関係がある

ことの可能性です。この関係があることで、私たちは健やかに、自発的に主体的に、

一人一人の生活において、忍耐し自分を省み、ひるまないで希望を燃やし、

何度でも立ち上がっていけるのではないでしょうか。「関係」が問題を解決する

わけではありません、「関係」は問題を解決していくために力を発揮します。

願わくは、私たちが、家庭、教会、人たちと作る社会で、そのような関係を

産み出せますように。

 

 さて、みなさん、イエスのabbaには、全幅の信頼と、私はあなたに愛されて

おり平安です、という信仰が込められています。

あなたもイエスに倣ってabbaと呼び掛け祈ってみませんか。

 

         2021年7月19日 石谷忠之牧師記

 

教会創立40周年記念に植樹したレモンに若葉

 私たちの教会の創立は1980年4月のイースターでした。昨年は40周年の年、

そのことを記念して礼拝堂アデルフォイに植樹したのがレモンの苗木2本でした。

その苗木から今年の春になって瑞々しい若葉が生まれてきました。

       ???????????????????????????????

 私は年が明けてもいっこうに若芽を見せないレモンの木は、このまま枯れていくのでは

ないかと思いやきもきしていました。自分に見通しのないまま「待つ」ということはむつかしい

ことでした。見えないものを待つ、見えないものに眼をそそぐ、自分を越えることがあると知る、

レモンの芽吹きそして若葉という事実から教えられます。

      ???????????????????????????????

 

        2021年5月15日土曜日  石谷忠之牧師記

 

深紅面目26 「イースター礼拝メッセージ」

2021年4月4日 イースター礼拝説教

「受け継がれていくイエスそして福音―イエスの弟ヤコブ、ペテロ、

パウロ、そして私たち、さらに私たちからー」

聖書箇所:ガラテヤ書2章11節~16節

長い文章になってしまいました。実際に聖書箇所を開いて、

ゆっくりと何回かに分けて読んでいただければ幸いです。

 

<ペテロとパウロの共感>

イエスの十字架刑から19年ほど後、紀元後49年頃。ユダヤ人にとっては異邦人の土地、

アンテオケの教会を訪問したユダヤ人ペテロは、パウロと異邦人キリスト者と共に食卓を

囲むことができました、それはなぜなのでしょうか。

ガラテヤ書2:12前半からは、ペテロがパウロの伝えていることに賛同し、割礼をしていない、

つまりは律法のもとには立たない異邦人キリスト者を受け入れていたことが分かります。

33年頃に回心したパウロは、神に救われるのに割礼というようなユダヤ教の教えを守る

必要はなくなった、いまやイエスが伝えているように、神は無条件に資格や功績を問わないで、

すべての人間の存在そのものを愛して赦して招いているのだ。イエスはこの信仰に

生きたのである、

十字架刑死に至るまで生きたのである、そして神は、このイエスの信仰は、

しかり神の意志であるとして、イエスを死から起こす・復活させることで肯定されている。

私たちはこのイエスの信仰をわが信仰としよう、とパウロは語り、ペテロも同意していたのです。

 

 <あの夜のペテロ>

 なぜペテロはパウロと足並みを合わせることができたのか。じつはパウロよりも前に

ペテロこそが、無条件・人間の資格や業績を問わない、神の赦しと招きの福音にすでに

生きていたのです。ペテロのことを振り返ってみます。

私はペテロがイエスとともに過ごした最後の夜に注目します。その夜のペテロの様子を

再現してみましょう。

 

マルコ福音書14章12節から72節

1.         イエスは宣教の旅の苦楽を共にした弟子たちと食卓を囲みます。

イエスは逮捕される予感をかかえながらも、ごく内輪の者・弟子たちとの親密な時間に

安堵していたと想像することができるのではないでしょうか。

ペテロはこれから起こるかもしれないことに不安を感じながら、いつも以上に

イエスに眼と耳を傾けつつ、イエスと囲む食卓の幸いに感謝していたことでしょう。

2.         この場面を変えるようにして、イエスは声を上げ弟子たちみなに呼び掛けました。

このパンを取って食べよ。このパンはあなた方のための 私のからだ。

さあ杯から飲みなさい、これはあなたがたのための 私のち。

このとき、ペテロはイエスの言葉としぐさに促され、厳粛な気持ちになって

パンを食べ杯を飲んだことでしょう。

3.         そののち、ペテロは祈るイエスのそば近くに座ることをゆるされました。

イエスがもだえるようにして一心になにごとかを祈っている姿が見えました、

しかしこれまでの旅の労苦と一日の疲れがどっと出てきて眠りこけてしまいました。

4.         そしてイエスは捕えられていきました。抵抗することもなく非暴力のイエスでした。

ペテロはイエスを置き去りにしてなんとか逃げることができました。

5.         ペテロは保身を第一にしてその場から逃げはしましたが、見つからないようにして

連行されていくイエスの後を遠くからつけていきました。そしてイエスへの尋問が開始された

大祭司のやかたに忍びこみました。イエスがどのようになるのか、恐怖と不安が大波のように

体のなかで打ち寄せていたのではないでしょうか。

6.         ペテロにあなたはイエスのなかまだ、と問う者がいます。

ペテロは、おもわず、いや違う、私はあの男を知らないと打ち消します。

7.         その直後逃げるようにして、ペテロはふたたびみたびイエスに報いることのできない

自分の勇気のなさ、ふがいなさに泣き崩れながら、やかたをあとにしたのでしょう。

夜が明けてのち、ペテロはイエスの十字架刑場にいたのでしょうか。

 

<生きかえったペテロ>

この夜のあとでペテロに何が起こったのでしょうか。

ペテロはガリラヤ湖で漁師をしているときに、神は今や無条件になんの資格も働きも

問わずにすべての人間を赦し恵み神の愛する子としてくださる、

インマヌエル神が共に歩んでくださると語るイエスに出会い、イエスのことばを受け入れ、

イエスの行動に従うと決めました。そして3年ほどイエスに同行する旅のあいだに

イエスに出会うことで生きかえっていく人たちを見ていました。

そしてこの夜のあとで、本当に心から分かったことは、無条件・資格を問わない福音に

救われる人間とは誰か、神に愛されている・受け入れられている者とは誰か、

父に待たれている放蕩息子、一日分の賃金を受け取る1時間しか働けなかった葡萄園労働者、

見つけられる迷い出た羊、探しだされる失われた1枚の貨幣とは誰か、

ああそれは自分なのだと、イエスに対する自分のありさまなのだ、と分かったのです。

はじめてのようにして、ペテロはイエスの語ることばを我が身に受けとめたのです。

そしてやがてイエスとイエスに現れている神の自分への、隣人への赦しと招きを人々に伝えたいとの

こころざしが生まれたのです。このこころざしを持ち続け実行し続けていたペテロだからこそ、

アンテオケ教会で異邦人キリスト者と食卓を囲めたのです。

あの夜、自分の弱さを痛感し、挫折し後悔し絶望するペテロは、まさにそのような

イエスとの別れをしたからこそ、イエスの伝える福音に慰められていく自分、

少しずつ立ち上がらされていく体験を深めていったのではないでしょうか。

そしてイエスの福音を、自分が隣人に伝えていく、分かち合っていくのだというこころざしを

持つようになり立ち上がったのではないでしょうか。別れから始まることがあります、

別れがあったからこそ生まれる生き方が人間には起こるのです。

 

ガラテヤ書1:18~20によれば、イエスの十字架刑から5年ほど後紀元後35年頃、

イエスの福音を異邦人に伝えようとするパウロは(回心後2年ほどのち)、

エルサレムに生まれた教会(研究者からは原始キリスト教会と呼ばれています)の

指導者となっているペテロに会わんとして訪ねています。ふたりは初対面でした。

私の想像ですが、パウロはペテロに、ナザレのイエスは何を語りどのように生きて、

そして何を自分たちにもたらされたかを聞きたい、そして語り合いたいと切り出し、

その話し合いは共感すること大きく多く充実し実りある、お互いの心が燃えるような語らいに

なったことでしょう。パウロはペテロのもとに15日間滞在したと書いています。

この記述で記憶しておきたいことのもう一つは、パウロはイエスの弟ヤコブに会っている

ということです。ユダヤ教主流派からも評判の高かったと言われているヤコブなのですが、

彼はすでに原始キリスト教会ではペテロに並ぶ重要人物であるとうかがうことができます。

 

<福音を生きる三人三様のすがた>

話を紀元後49年頃のアンテオキア教会に戻しましょう。

ガラテヤ2:12を読むと、ペテロは、ちからを持つ者の前にきぜんとして立つことができずに

逃げてしまうという弱さをいぜんとして抱えていました。だから割礼をはじめとするユダヤ教の教えと

エルサレム神殿体制を重んじながら、ユダヤ教権力・ユダヤ教主流と折り合って信徒集団を

守っていく選択をしたイエスの弟ヤコブが介入してきた時、ヤコブと対立してまで自分の信仰を

明らかにしてはいかなかったのです。ペテロは異邦人キリスト者と食卓を囲むことをやめてしまいます、

彼らは割礼を受けておらず律法のもとにいないからです。この行動の一貫していないこと、

その福音の理解と徹底についてパウロから激しく追及されるペテロを私たちがどう見るか。

あなたはどう見ますか。

 

私の見方はこうです。

イエスの信仰は、無条件・人間の資格や業績を問わないで、神は人間を赦し招いておられる

ということです。人間の欠けたること、的の外れた在り方、思い違っている姿、

弱いとしか言いようのない姿、とにもかくに人間のありのままの総体は、

イエスの信仰とそれをしかりと肯定される神の前には、まったくもって赦されているのです。

この神の赦しと招きのうちに、なおも律法を重んじるヤコブも、パウロに共感しつつも

パウロのようにはなれないペテロも、神の救いを受けるのに律法を守ることは前提とされなくなった

とするパウロも、神の働き人とされて、それぞれの時と場の状況において、ヤコブにはヤコブの、

ペテロにはペテロの、パウロにはパウロの、自分の生きる状況のなかでの、

在り方・生き方をどうするかについて、自分の責任で決断をして、

三人三様にイエスの信仰とイエスの福音を語り行動していったのです。

 

人間に完全無欠などない、欠けていて良いのです。イエスの福音においては、

たとえば野球のピッチャーの面々、0勝10敗も5勝5敗も9勝1敗もいいのです、

投手としてそれぞれにがんばって投げた、勝ちも負けもつかない中継投手もいいのです、

がんばってりっぱにやくわりに携わったのです。

福音はそこに存在している人間を応援したいのです。福音は人間のものさしとは違うのです、

そもそも人間を評価することはないのです、人間への赦しと招きには境界はないのです、

壁はないのです。

 私は私がみなさんに述べている、「無条件・人間の資格や業績を問わないで、

神は人間を赦し招いておられる」ということを、これと同じ言葉で・言い回しで、

イエス自身が、あるいはペテロが、あるいはパウロが語ってくれていたらどんなに

良いかと思います。しかし残念なことですが、あの当時には、無条件とか、資格を問わないとか、

業績を問わないとか、赦しとか、招き、とう言葉や言い方はなかったのでしょう。けれども、

イエスのたとえ話と言葉と行動のなかに、ペテロとパウロのそれぞれ独自のことばと行動のなかに

見出すことはできるのではないでしょうか。

 

 しかし、断固として合わせて言わなければならないことがあります。

ヤコブ、ペテロ、パウロから教えられることです。それは、私たちが福音を受けたならば、

イエスに、イエスを立てた神に、福音に、私たちが応答していくことができるという恵みです、

これは強制ではありません、受けた者の生きがい働きがい、自分の可能性への挑戦です。

それが、招かれているということです。赦しと招きがひとつになっている福音。みなさんも共感してく

ださることでしょう、私たちは赦しを味わうと赦しに応えたいという気持ちになります。

そして応える行動をしていくなかで自分の欠けやどうしようもなさに気付く時、

ふたたびみたびと赦されて在ることを知るわたしたちの今です。

 

<私たちは福音を次の世代に渡していこう>

 さて、私たちは何者でしょうか。

私たちは賢くありません、知恵もありません、世の中でちからがある者でもありません。

ユダヤ教徒でもなくユダヤ教と旧約聖書、新約聖書に精通した者でもありません。

愛深いわけでもありません、思慮深いわけでもありません、行動に一貫しているわけでもありません。

 でも、このような私たちは日々にイエスと神の意志を求め、自分を用いてくださいと祈っています。

この世界の人々に平和を作ってください、そのために私を用いてくださいと祈っています。

どうして祈ることのできる自分なのか。そうです、私たちは、「無条件・人間の資格や業績を問わないで、

神は人間を赦し招いておられる」という福音を受け取り、ヤコブ、そしてペテロ、そしてパウロと

同じように、私たちも福音に応えようとする者にされているのです。

私たちのうちに、イエスの信仰が生きている、このことは、私たちのうちでイエスが死から起こされて

生きているということ。そうです、ヤコブ、ペテロ、パウロと同じように、私たちの内にもイエスが復活して

いるのです。私たちにこの福音が実現しているのです。

 

「無条件・人間の資格や業績を問わないで、神は人間を赦し招いておられる」という福音を、

今度は私たちから次の世代の人たちに渡していきたいと願います。

この福音には人間を生かす力があると、あなたは思われませんか。

すべてのいのちが神による尊厳を持つと知って私たちを優しくさせる、

今こうして私たちが集まっているように人間と人間を結びつけるちからがある、

そして人間の世に平和を作り出すちからがあるとあなたは思われませんか。

この福音は私たちの社会に隣人に世界の人々に、在って意味があると思われませんか。

私たちはこの福音を次の世代に渡していくという願いを共有しようではありませんか。

この願いを実現できるように私たちは共に祈り求めていこうではありませんか。

 

2021年寒中お見舞い申し上げます

        2021年寒中お見舞い申し上げます

 2020年は“コロナ”を受けとめての日々の暮らしでしたね。読者のみなさまはどんな一年を

お過ごしになられましたか。私の方はもっぱら外出を避け、人たちとお会いすることを最小限に

することに努めましたが、それでも自分の心身の健やかさ安らかさを保つために、ときどきは

一人歩きすること、楽しくなることをしました。そんな私の2020年を、写真を使ってお伝えします。

この新しい年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 1月、宮崎市へ教会の仕事で赴く途中に水俣市を訪ねました。

目的は石牟礼道子作品『椿の海の記』に描かれている風景に出会うことでした。

作品はもしも石牟礼さんが自分の幼少期のころを設定しているとしたら1930年代、

昭和でいえば10年までのころ。ですから現在の水俣市内の町にもうそのころの面影は

ないのですが、それでも作品にある穏やかで豊饒なる不知火海、天草の遠望、

海岸の波打ち際、水俣川河口の際までせまっている低い山の連なりを、この眼に実感する

ことができました。また古い地図を片手にして二日間に分けて市内を歩きましたが、「猿郷」「避病院」

「八幡舟津」「亀首」「永代橋」「栄町」「桜井町」「大黒町」「百閒」「新日窒水俣工場」「梅戸」など

地名には当時のままのものがあり、石牟礼道子作品をいっそう親しく読めるようになったと感じます。

写真は、不知火海の向こうに天草の島々(大崎うざきにて)

    DSC06174

 

 2月には、やはり宮崎へ教会の仕事で赴く途中、教会の友人と大分予科練資料館を訪ねました。

この資料館はあの戦争の時に予科練出身であった方が、平和を祈念して資料を収集し自宅に

資料館を開設し現在は息子さんがその志を引き継いでおられます。

親子のひとすじの願いに感じ入った訪問となりました。

 

 新型コロナの影響を大きく受けた今年のひろしま8月6日。私はアルバイトを休みにして

教会礼拝堂近くの牛田山に登り8時15分に黙祷することにしました。

 1981年から広島に住むようになった私には40回目の原爆記念日、そして私は65歳。

山頂で思ったこと。それは私が存じ上げている被爆者のみなさんは、あの日の肉親との別れ方、

友との別れ方に一人になると慟哭し自らの肉体に刻みつけられたきずのうずきに耐える生活を、

私の生きた時間にさらに10年を加えて、今日この眼下のひろしまのどこかにおられる。

そして今年もまた核兵器廃絶は実現しない、いったいいつ実現するのか。

 そして10月の終り、私が被爆体験伝承をさせていただいているKさんが亡くなられました、

放射能の怖さを伝え続けた88歳の生涯でした。

 山頂では私と同じようなふうの方が10名ほど、はっきり届いたサイレンに合わせて静かに

それぞれの黙祷を合わせました。

私は核兵器廃絶を願って暮すことをここひろしまで続けていきます。

 写真は牛田山から8月6日のひろしま市内です。

 ???????????????????????????????

 

  10月に、コロナ防疫に厳重に努めながら、リフレッシュ・気分転換に日帰りのできる

瀬戸内の島を訪ねました。そのひとつは広島の西方、柳井市の沖にある祝島です。

祝島の住民には、中国電力が上関という場所に建設計画している上関原子力発電所に

計画発表の時から反対運動を続けてくださる方々がおられます。

この日は私が長い間果たさずにいた祝島フィールドワークとなりました。

 写真は祝島港です。

 ???????????????????????????????

 

 私は毎年5月と11月に体力の定点観測と名付けて宮島の弥山(みせん)他の山歩きを

していますが、今年はコロナ禍を避けるために行きませんでした。そこで12月に入り、自宅から

出発して人とあまり会わずに徒歩のみで行ける、松笠山そして牛田山を、

縦走とは少々大袈裟ですが、歩きました。途中牛田山の近くに位置する教会礼拝堂で

昼食休憩して、ゆっくりと6時間くらいをかけて山歩きを楽しみました。

 

 元気に過ごせていることを感謝して2021年もこのホームページで読者のみなさんと

交流を続けたいと願っております。どうぞよろしくお願いいたします。

 

        2021年1月18日月曜日  石谷忠之牧師記

深紅面目25 「2020年クリスマスメッセージ」

 ≪クリスマスメッセージ≫

「いつでも、どこにあっても、いちばん大切なことに生きよう」

  聖書箇所:ルカによる福音書2章8節~21節

 イエスの誕生を記念するクリスマスおめでとうございます。

私は喜びをもって、「おめでとうございます」とみなさんにご挨拶をお届けします。

みなさんも私と同じと思います。みなさんはイエスの生涯全体、そのなかのこの場面、

この言葉に、慰められている、励まされている、立ち上がらされている、勇気付けられている、

そんな体験を今年もされたのではないでしょうか。

「インマヌエル」、私たちの生活の場と状況は違いますが、イエスに対して

そのような感慨を抱いておられることは共通、共有体験としたいことです。

 

 なぜ、おめでとう、なのか。わたしの場合はこうです。

私はイエスから毎日の生活をおくるうえでの「背骨」を与えられています。

この背骨を言葉にするとこうです。「いつでもどこにあってもすべてのいのちが、

喜び生きることこそ一番大切なことである、とイエスは生涯を捧げて示してくださった。

そしてイエスの信ずるアバ・神は、イエスの生涯の帰結とならざるを得なかった十字架刑死を

そのそばで共に味わい、けっして、敵意をむきだしにした人間、逃亡した人間、

傍観した人間とイエスを見捨てるのではなく、むしろ愛し赦し招き、

イエスをまずはペテロをはじめとする弟子たちの内面に、

次には行動に復活させていくことによって、イエスの生涯全体はその主張は、

わが意思わが肯定と示してくださっている。」

 

 生きる上でのモットー、よりどころというのでしょうか、この「背骨」なるものがあるから、

私は直面することに動揺しないでおれます。たとえ動揺しても最後には安らかでおれます。

だから感謝、「おめでとう」なのです。

 

 たとえば私には次のような「教会が自給しているか」についての体験があります。

私は多くのキリスト教会で語られる「自給」の意味を知っています、

かつては自分が苦しめられたことばでもあるのです。

それは、ルカ福音書10章7~8節

(注意してください、ルカにあるこのことばは最古の福音書マルコにはありません)

と第一コリント書9章13節~14節を根拠にして、教会が献金でもって牧師家庭の経済生活を

支えていることが教会の自給であるという考え方です。かつては私もそのように考えたことがあり、

自分がそうではないことに苦しみもしたのです。

 私は若いころ牧師を待たないで集会を行う無教会の方にお世話になり、

キリスト教会で信徒指導者と呼ばれている方たちと交流があり、

他に職業を持ちながら教会の牧師として働く仲間もいる、

ということで教会から謝儀(給料)を得ないで牧師として働くことに柔軟である一方で、

何か欠けているような、まだ一人前の牧師ではないような落ち着かない気持ちを

かつては持っていたのです。

 でもいまはこのことで私は全く平安。

なぜ私が平安でいられるか、先ほどの背骨です。

「いつでもどこにあってもすべてのいのちが、喜び生きることこそ一番大切なことであると

イエスは生涯を捧げて示してくださった。~略~ 。」

私にはこの「背骨」を私自身と、私が出会う人たちに実現することが一番の大事であり、

これを実現するために、私と私たち広島教会の場合は、

私が女子教育の場で働かせていただいたことで、現在まで歩んでくることができた

という感謝と喜びがあります。

そして「自給」ということでは、私たち広島教会は「わたしたちなりに自給してきました、

自給しています」とも言いたい、みなさんはどう思われるでしょうか。

 

 みなさん、かつて私が前述の箇所で苦しんだように、聖書のことばによって、

人が自己肯定することができなくなったり、悩むようになったり、人の持つ可能性や願いが

封じ込められてしまう例がありますね。

私たちはいつも、そもそもイエスのメッセージは何か、福音とは何かを、

自分が直面するできごと、日常の具体的な人との出会いと直面する社会のできごとを

通じて考え、あるいは聖書の成立過程の学び、キリスト教歴史の学び、

現代社会についての学びを続けながら、虚心坦懐求め続けましょう。

 

 たとえば、あなたは第一テモテ書2章11節から15節をどう読まれますか。

実際にあった話ですが、本当に長い長い年月に渡ってある教会では、

この聖書のことばを根拠にして、女性はたとえ本人が願っていても牧師になること、

教会の重責を担うことが閉ざされていたのです。

その年数はなんと66年間。さいわい現在では女性は男性と同じように牧師、

役員の責任を担えるようになりました。

不思議なことです。私自身はこのテモテ書に書かれている言葉を何度も読んでいますが、

私たち広島教会に当てはめることなど一度も考えたことはありません。

 

 私はイエスがどういう考え方を持つ人たちに危険視され敵意さえもたれ、

しまいには殺されていったかに関心を寄せて聖書を読みます。

そのなかで、字面(じづら)の文言に捕らわれてしまって肝心要(かんじんかなめ)の

人間の喜び生きることを最優先にすることができなくなってしまった人間の有様、

そしてその現実のなかで、前述の「背骨」のメッセージを、放蕩息子のたとえ、

葡萄園労働者のたとえ、いなくなった一匹の羊を探し求める羊飼いのたとえで語り、

そうしたたとえを、取税人や病気に苦しむ者や子どもたちの中に入って実践するイエスに、

さらには安息日の行動の取り決めを金科玉条のようにつきつけてくる者たちに向かって、

アーメンアーメン私は言う、

安息日は人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるのではないと宣言する

(マルコ福音書2:27〈注意してください、このことばはマタイとルカ福音書にはありません・

なぜでしょうか〉)イエスに感動するのです。そういうイエスをわがよりどころにして、

第一テモテ書のことばを字面どおりに私の生活現場に取り入れる発想は

まず生まれてこなかったのです。

 

 聖書はノンフィクションとフィクションの混在、イエスに遡るメッセージと

イエスをキリスト・赦し招いてくださる方、導き手、よりどころと告白する人々が(教会が)、

その状況下懸命に信仰者として生きようとする最中(さなか)に仲間と自分を鼓舞し集いに

勇気と希望と秩序を産み出すため、信仰のうちに、与えられていったことばの混在、

とも言えるのではないでしょうか。

 

 だから私がしたいことは、聖書を丁寧に読み親しみながら、私の生活する、

いまここで、私を含めてすべてのいのちが喜び生きることこそ一番大切なことであるとするイエスが

しようとしていることは何かを、自分で考え・想像し、

考えついたら、自分の責任で実行していくことなのです。自分の責任で実行した者たちのなかに、

この文章で紹介した言葉を書いた著者たちがおり、――ルカとマタイのクリスマス物語があり――

第一コリント書9:15~18をお読みください、パウロもそのひとりです・パウロの自分の責任で

あえて教会から経済的に支えてもらうことはしないという宣教への意気込みが伝わってきます。

 

 ドイツにはボンヘッファーという牧師がいました。この方はナチス・ヒットラーの暗殺計画に参加し、

捕えられて命を奪われたのですが、次の言葉を残しました。

「神の面前で、神とともに、神なしで生きる」

ボンヘッファーの書いた著作を少しですが読んでいる私の解釈は

「神の恵みのまなざしのなかで、神に支えられ、自分の生きているこの場で、

自分の責任で行動を選び生きる」

 

  みなさん、自分の責任で行動を選び生きることの原点・模範になった方は誰でしょうか。

「アーメンアーメン私は言う」ナザレのイエスこそこの行動の先駆け、私はそのように思っています。

 

 自分の歩みを振り返り思います。

もし、私が先ほどの第一コリント書9:13,14節に捕らわれることが続いたら、

いまごろ私はどうなっていただろうか。自分を責め続け広島教会の現状を嘆いている

かもしれませんね。しかし広島教会の牧師としてみなさんに迎えられた私を、

イエスとアバは嘆きに終わらせることなく、今の私の晴れやかな気分にまで導かれた、

私は最後まで、めんどうをみていただいている、導かれていくと思っているのです。

だからだから、私は、イエスの誕生を記念するクリスマスおめでとうございます、

喜びをもって、「おめでとうございます」とみなさんにご挨拶をお届けするのです。

 

 以上は、私がクリスマスおめでとうございます、と言うわけについてでした。

みなさんの「わけ」をお聞きしたいです。私たちひとりひとりは、それぞれ違う生活の場を

持っています。直面していることも、悩んでいることも、なんとか解決したいと思うことも

独自のものがあります。そういうあなたを覚えて私は祈っています。

あなたが取り組んでいることのただなかで、あなたを支えている背骨が育てられている

ことでしょう。私たちは広島教会に集められた仲間たちアデルフォイです、

私たちはお互いの歩みの上に共通の主・イエスの導きと慰めと励ましを祈りましょう。

お会いする時は共に祈り合いましょう。

私はあなたと、それぞれに与えられ育てていただいた「背骨」、

主イエスの誕生に感謝しますというその「わけ」を分かち合える日を楽しみにしています。

 

      2021年1月11日   石谷忠之牧師記

深紅面目24 「ひとりの被爆者が地上の歩みを終えられた」

 児玉光雄さんの死が新聞に報じられた。

2020年10月28日水曜日、児玉光雄さんは88年間の地上の歩みを終えられた。

私は2012年より、児玉さんから彼の被爆体験講話を伝承する者として

目を掛けていただいた。  私は伝承講話をこの10月までに50回・722人の方に

させていただいた。

しかし、51回からは、もう児玉さんは地上にて同じ空気を吸うて生きる者としては

おられないのだ。

同じ時を生きる者ではない方のことを語る、

私は51回目の未体験の伝承講話を前にして落ち着かない。

 

 児玉光雄さんは、12歳中学校1年生の時に爆心地から876mの地点、

木造校舎教室の中で被爆した。

受けた被爆線量4.6シーベルト(ミリにすれば4600ミリシーベルト)、半致死量の線量である。

そしてその日から原爆症と向い合う日々が始まり、2020年10月28日に、、、終った。

 

 75年という歳月、児玉さんはさまざまな症状に苦しめられた。下痢、皮膚のおでき、食欲不振、虚弱、

被爆後48年経った1993年からは、直腸がん、胃がん、甲状腺がん、皮膚がん、これらそれぞれの

臓器で発症するがん手術は20回を越え、そして2017年には正常な血液細胞が作られなくなる難病

骨髄異形性症候群(MDS)、そして最後は腎臓がん、、、。

 

 放射線被爆が人体に与える影響の恐ろしさを伝えてください、人間の健康を損なう被爆をなくしたいのです、

私は最大の被爆の惨禍をもたらす原爆核兵器を廃絶したいのです。

私はそのために生かされてきたのです。

 

 あの日の教室にいた広島一中1年6組の少年たちの最後のひとりとなっていた児玉光雄さん、

ふりしぼるようなその声が聞こえる。

 

 私は言葉を作れない。

一発の広島に投下された原爆によって、児玉さんはその生涯を決定づけられてしまったのか、

そして原爆は彼を75年間も、よるべない、なにか解決していない動揺のなかに置いたのか。

いやいや、児玉光雄さんは級友少年たちによって立ち上がらされて、

核兵器廃絶に向かって情熱を傾けていたのだ。

児玉さんは自分の生涯を自らの手で作り上げたのだ。

 

             2020年11月7日(土)   石谷忠之牧師記

 

  • 14825総訪問者数:
  • 5今日の訪問者数: