お知らせ

11月のメッセージ 「山椒魚は忘れない」

 井伏鱒二の「山椒魚」。山椒魚は自分の体が大きくなりすみかの岩屋から外に

出ることができなくなりました。それはふかい嘆き哀しみとなりました。ある日、蛙が

その岩屋に迷い込んできました、山椒魚は岩屋を自分の頭で塞いで蛙を閉じ込めます。

それは山椒魚の罪ふかい行為でした。2年の歳月が過ぎて、蛙は空腹のなかで絶命寸前。

 

 (蛙)相手は答えた。

「もうだめのようだ。」

よほどしばらくしてから山椒魚はたずねた。

「お前は今どのようなことを考えているようなのだろうか?」

相手はきわめて遠慮がちに答えた。

「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ。」

 

 このことばで短編は終っています。

蛙は山椒魚の嘆きと哀しみを感じ取りました、そして2年山椒魚とともに在りました、

自分を閉じ込めた山椒魚に対する怒りを抱くことなく・・・。

2年の間、山椒魚は孤独から解放されていました、そこに蛙がいたからです。

蛙の境遇を支配できていると考えることで、自分の不運への怒りから逃れる

ことができたのです。

 

 蛙の息づかいが岩屋から消えたあと、山椒魚はどうなったのでしょうか。

 

 「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ。」のことばを、聞き分ける山椒魚で

あってほしい。これは蛙からの最後の贈り物。愛されていること、ゆるされていること、大切に思われている

ことを忘れずに最後の一日まで生きてほしい、という。みなさんはどのように聞き分けるでしょうか。

 

 私たちは、自分の愛されていること、大切にされていることを知らずに、成長を続ける赤ん坊の

ようです。それでしかないのですが、すくなくとも成人した今は、

自分は自分を支えている「愛」を十分に知る者ではないのだ、ということを知っている者でありたいと思います。

 

                 2015年12月6日     石谷牧師記

 

キャベツ作りに挑戦

 秋から冬にかけて寂しくなったアデルフォイの菜園ですが、

すこしのにぎわいを求めて、「キャベツ」「ブロッコリ」「カリフラワー」に

挑戦しました。野菜がどんなふうに成長していくのか、見ることは楽しいです、

でもむつかしいものですね、キャベツはなかなか大きな玉を作っていきません。

自分でやってみることで、スパーで見る大玉のキャベツが今までとはまるで違って

見えます。

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                        2015年11月28日  石谷牧師記

若者をテロとよばれる行為に追い詰めない

  「なぜなら、天の王国は次のような家の主人と同じである。彼は自分の葡萄園に

労働者を雇おうとして、夜が明けると同時に外へ出て行った。」

                      岩波訳 マタイによる福音書20章1節

 

 パリ同時多発殺傷行為を行ったフランスの若者たち、なぜあのような野蛮な行為に

及んだのか。

 移民の子孫ゆえの差別、就職したいが採用してもらえない、失業中が続くなど、

それが貧困につながり、将来に対する望みを失い、やがて絶望と怒り。怒りの矛先は富裕層、

社会体制に向けられる。そこに乗じてIS(イスラム国)が兵士へと勧誘してくる、兵士になることは

就職先を得ることであり、怒りを爆発させる場を得ることになる。このような指摘があります。

 

 私はイスラエル占領下のパレスチナでイスラエルに対して暴力行為に走る若者の心理を

聞くにつけ、就職できず経済的貧困がいつまでも続くことを何とかしたいのに、自分では

どうするこもできないとなれば、これはもう誰かが自分を「抑圧」していると考えるのは当然と思い

ます。

 

 この状況下で、「平和を作り出す」ことの具体化のひとつ。それは「職場」を作り出すこと、

職場を作っている者、作り出そうとする者を「応援」することです。

 マタイ福音書20章のぶどう園の労働者のたとえをこれまでそのように読んだことはありません

でしたが、ぶどう園の主人は日雇いで生活する者たちが働くことのできる「職場」を持ち、早朝から労働者を

雇うために自ら出かけいき、そして彼らが一日生活するために必要な現金を、労働時間の長さを問わず、

みなに一様に支払っています。

 飢えやひもじさの心配から今日一日解放される安心を労働者に提供している主人の姿。天の国はそのような

主人のようであると言い切られています。誰もが安心して生きることができるようになる、のが天の国。

あなたたちもこれに倣い、自らだれもが安心して働き、生活していく上で必要な給与を得る「職場」を創造しなさいとの

招きを受けているように思いました。閉塞状態の中にいる若者たちの中で「平和を作り出す」ことの具体的な実践に

なることでしょう。あるいはすでに始まっている「職場」に貢献していくことも平和を作り出す働きでしょう。

パリの事件を受けて、マタイ福音書20章1節以下のイエスのたとえから考えています。

 

                                2015年11月25日  石谷牧師記

宮島で思った出会いのゆたかさ

 私は2002年から毎年11月3日祝日には宮島の弥山(標高535m)に登ります。

自分の体力の定点観測日、そして一緒に登る方との貴重な交流日になっています。

登りおりる間に幾人かの人とすれ違います、ほとんどすべてのひとが、会釈し「こんにちは」と

あいさつを交わします、気持ちの良い清清しい一瞬です。

今年は外国からの方と数名すれ違いました、いずれもおひとりで登山を楽しんでいました。

自然な笑顔を交わし「こんにちは」・・・私からは「どうぞ良き日本の旅を」との思いでした。

 歩きながら、これまでに一緒に登った方たちを思い出していました。私が勤務した女性大学の

学生たち、卒業生、同僚たち、知人たち・・・。同行が1回だけの方、複数回の方、現在も続いている方と

ありますが、1回限りとなった方とも心に強く残る登山ができたなと感謝を持ってその方を思い出すのでした。

その方との出会いは1回限り交差し、そのあとは再びお会いすることはないのだろうと思います、それはそれで、

いい出会いでした。感謝をもって、なつかしく愛おしく心に残っています。

 

 私たちが日常に出会う人たち。

1回限りの交差をし時間を共有できた人、

継続してしばらくの時間交流か続いた人、

そして現在も同じ方向に向かって歩み声を掛け合っている人。

  ほとんどは交差することなく、私たち人間はすれ違うのです。

そのなかで、ある一時、あるしばらくの時間、今に至るまで今日も時間を、共に分かち合うことのできること、

それはたいへん貴重なこと、すばらしい恵み祝福に違いないのです。

もうふたたびは会うことがないかもしれない方たちのこと、

そしていま得ている人たちの交流を温かな思いでふりかえる山歩きの一日となりました。

                (写真は弥山の駒ゲ林であいさつを交わした外国からの方たち)

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                2015年11月13日   石谷牧師記

10月のメッセージ 「自由になりたいな、自分からも」

 子どものころ、走っちゃだめよ、転ぶよ、とよく言われたものですが、これは正解です。

つまずきの石があるから転ぶのではなくて、転んでしまうような私であるから、その石が

つまずきの石になるのですね。

 このこととよく似たことですが、日常の人間の関わりのなかで、私たちはよく人間につまずきますし、

人間が引き起こすできことにつまずきます。つまずく原因は私たちの側にある場合もあると思うのですが、

私たちはなかなか自分を省みることができません。

 

 たとえばこのようなことがあります。

私は自分は非暴力を貫くという信条を持っています。争いが起こった場合、人間と人間とのあいだでも、

国と国のあいだでも暴力、武力を使わずに争いを解決したいと思っています。

 しかし現実には自分の住む日本国はすでに武力(自衛隊)を備えています。そして現在日本政府は

さらに武力によって国際間の紛争を解決する方向へとその備えを増強することに躍起になっています。

このたび私の友人たちが増強される部分、このたびの安保関連法に対して抗議活動を始めました。

私はその増強する部分・安保関連法に対して抗議することについて考えこんでしまいました。

 自分は従来から国が武力を持つことに反対しており、増強の部分のみの抗議をしたら、すでに備えられた

武力を認めることになると考えたからです。

 そして痛い思になりました。武力行使によって紛争を解決することはしないという考えの私ですが、

自衛隊を縮小させるためにこれまで私は何もしてこなかった、他の人が見たら私は自衛隊の存在を認めている

ということになるのだ、ということです。いや実際私は自衛隊を認めていたから何もしてこなかったのです。

 私は痛い反省のあと、この自分の現実の姿を認めねばならないと思いました。その上で、専守防衛を大きく

変えていくことになる集団的自衛権行使を開く安保関連法に抗議にすることに加わりました。自分の信条と

自分の行動とがひとつとなっていないとの反省によって、友人たちの行動につまずいて動けないのではなく、

私は新しい取り組みをすることができました。

 

 私たちはそれぞれの体験を重ねながら自分なりに信条のようなものを持ちます。その信条に立ち譲れない

ことにはいさぎよくつまずきたいと考えます。しかし、自分の信条よりも重要で優先すべきことと判断したら、

あえて自分を変えたいと思います。いま自分たちは、どんな時を迎えているか、何を優先すべきかを一番にして、

自分の信条は信条としても、いったんは棚に上げる、信条を変えることがあってよいと思います。

 

 10月は自分のなかにあるものと自分がつまずくことの関係について考えさせられたひと月でした。

 

                 2015年11月4日          石谷牧師記

9月のメッセージ 「オスロの青年の笑顔」

 こころに残るシーンがあります。盗みを犯して服役中の青年が、その青年について

取材を終えた者たちに、良い旅を続けられるようにと笑顔で手を振ってさよならを告げ、

家路を急ぐ人々の中を去っていくのです。青年は刑務所から有給休暇を取得して

両親の待つ実家へと帰省していったのです。ノルウエーの首都オスロでの光景でした。

 ノルウエーでは犯罪を犯した人たちの社会復帰を国を挙げて支援しています。刑務所では、

犯罪の内容と犯罪を犯した者を見極めその者に応じて社会復帰がスムーズにできるように

手段を講じます。親元に帰省していった青年は、刑務所職員とともに刑務所と社会を結ぶ定期便

の部門で働き給料と有給休暇を得ていました。私は驚きました。そして思いました。

人間は自分に対する肯定、自分の可能性を信じられているという実感を持ったならば、変わることが

できる、成長することができる、自立していくことができる。そして人はその人らしい新たな行動を

始めていくのだと。

 

 マルコによる福音書14章3節から9節。イエスにナルドの香油を注いだ女性がいました。

この女性とイエスとの出会い、出会ったことによって女性の何が解決したのかについての記述は

ありません。でも想像できます。そばにいた弟子たちによれば香油の値段は男の300日分相当の賃金に

見積もることができたのです。女性のなみなみならぬ切実な深い深いイエスへの理解があって、

いまこのとき、この場で自分のできる、イエスへの最良の行動がナルドの香油をイエスの頭(こうべ)に注ぐこと

だったのでしょう。女性はイエスのことばと振る舞いによって、自分の生きていることを肯定することができ、

自分の尊厳を知ったと私は考えています。

そして、女性は、いま、ここで、自分は何ができるだろうかと考えて行動する者に変わったのだと。

 

 私たちに今年も秋が訪れました。初秋とも新秋(はつあき)と呼ばれているこのごろです。

誰かが愛してくれたならば、人間は必ず新しくなれる。このメッセージをはつあきの季節に分かち合い

たいと思います。

 私の口ずさむさんびかです。

「きみがすきだって だれかぼくに いってくれたら ソラ げんきになる」

「きみがだいじって だれかぼくに いってくれたら チョット どきょうがつく」

「きみがすきだよ ともだちだよ イエスさまのこえが きこえてくる」

 

               2015年9月30日    石谷牧師記

 

かまきりとほととぎす

 アデルフォイの庭に秋の色、秋の風を強く感じるようになりました。

今日の午後、かまきりとほととぎすの花を見つけました。

写真でひと休みできますように。

            2015年9月29日  石谷牧師記

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2015年平和セミナーの成果です

 「ヒロシマとメノナイトにもとに集い合うセミナー(平和セミナー)」を

神戸メノナイト・キリスト教会のご協力を得て同教会を会場にして、9月20日から22日まで

開催しました。内容は私たちの生きる姿勢、方向、取り組むことを話し合い、それを

文章にすることでした。3日間、熱心に語り合い「私たちの願い~生きる尊厳を求めて」

という文章成果を生み出すことができました。またこの文章に基づき衆議院議長、

参議院議長、内閣総理大臣への要請文書を作りました。要請には全国のメノナイト教会にも

加わっていただこうと、賛同教会募集を始めました。

ここでは「私たちの願い~生きる尊厳を求めて」を紹介させていただきます。

              2015年9月26日   石谷牧師記

 

            私たちの願い~人間の尊厳を求めて

 私たちの信仰

 私たちはイエスの福音によって、私たちが一人の人間としてかけがえのない者である喜びと

人間の尊厳が守られるために働く喜びとを知りました。

 「ヒロシマとメノナイトのもとに集い合うセミナー」に参加した私たちは、敗戦後70年の年に、

すべての人間の尊厳と幸いの実現のために取り組んでいる教会のみなさんと市民のみなさんの

列に加わることを表明します。

 国策によって基本的人権を奪われた者に対して、私たちの国は冷たく厳しい。

しかし、その国の権力を支えているのは、私たち自身の「我慢の文化」に表わされる様な体質的傾向だとも言えます。

 私たちは、ひとりひとりの人間の尊厳が守られるということは平和のひとつの核心であると信じています。

個人の尊厳を省みられない人間がいる現実を私たちは変えていきたいと思います。

そして、この行動はイエスの福音と平和を実現する宣教であると考えています。

 

私たちの取り組み~喫緊の問題に対して

 現在進行している政府による人権を踏みにじる作為、無作為の行為に対して、

私たちは諸教会の仲間、市民運動の人々と連携して抗議の活動を続けます。

 

・個人を育てるはずの教育の場では、2006年成立教育基本法によって個人の尊重よりも国へ

の忠誠心を求める動きが浸透してきています。国家権力による教育の場への介入を私たちは認めません。

個人を育てる教育の場は国民のものであり、その担い手は私たち国民であることを訴え続けます。

 

・私たちのいのちと暮らしを守る上で必要な情報については、特定秘密保護法によって政府

の都合により操作されるという危惧があります。日常生活で得られる情報を吟味し、真実を求めていくことを

忘れてはなりません。私たちは問題意識を共有する人々と共に情報の収集と検証を続けます。

 

・すべての人間は、そのいのちが尊重され、平和に生活できることが守られねばなりません。

しかし、集団的自衛権の政策転換によって私たちは他国の戦争に加担せざるをえない状況となりました。

武力によって国家間の問題を解決しようとすることは、新たな戦争の火種を作ることになります。

私たちは今回の政策転換に反対し続けます。

 

私たちの願うこと

私たちは人間の尊厳が損なわれ続ける現実の中で生きています。しかし、無関心を決めこむ、

見て見ぬふりをするのではなく、自分を含めすべての人が我が事としてそこに関わり、

人間の尊厳を回復していく者になることが私たちの願いです。

 

                           2015年9月22日

      第8回ヒロシマとメノナイトのもとに集い合うセミナー参加者一同

 

 

わたしのこれから、立ち位置について

 わたしのこれからを、長期的な視点ではどうしたいか、喫緊のこと・短期的には

どう取り組むかを文章にしました。しばしばこの文章を読み返し一日一日生きることの

示唆としたいと思います。

Ⅰ.私の現実認識・私の願っていること

 まず私の現実認識について述べます。

私たちの国では、国策によって基本的人権を奪われた者に対して、その者が補償を

求めない場合でも、補償を求めて立ち上がるならいっそう、国の権力と権力を支えて

いるこの国の世論、日本人の体質的傾向・文化は、冷たく厳しい。この者を無視する、

分断する、受忍を強制する、握りつぶそうとする。今はそうではないかもしれないが、

潜在的にわたしたちは常に握りつぶされる側にいる。たとえば、握りつぶされている

人々の声にはここ数年に限っても次のようなものがある。

・在外被爆者、黒い雨による被爆者、アメリカ軍空襲被災者の国家保障を求める声

・公害による病気であるとの認定を求める声

・米軍基地の移転を求める声

・脱原発を求める声

・福島原発事故による被曝を恐れて帰還しないことを決めた者の声、国が指定した

福島県内地域以外で被曝を避けて自主避難した者からの事故の責任の所在と補償を求める声

・ヘイトスピーチを向けられた人々の長年の人権尊重を求める声

・日の丸・君が代の実質的強制に反対する者の声

・以上の声に共感し補償と行政支援を求める市民の声

 

 さらには私たち市民の側には根強いお上まかせの傾向がある。この背景には政治参加の

意識がもともと希薄な上に、学校教育を通じても国民が主権者であることが教科指導に比べて

熱心には教えられていないことがある。加えて経済的豊かさをつかむこと、維持することに

私たち国民は強い関心を傾けるが、偏った富の配分によって貧困層が固定化していることを

受忍するという拝金思想がある。

そうじて私たち国民は政府、行政に対する主張が弱い。国民が政治を作るという意識が育って

いないことは各種の選挙投票率が低調なこととして現れている。現在の米国偏重・右傾化する

政治の現状を作っているのは私たち国民の政治に対する無作為、無批判を続ける精神的体質である。

 

 私はこういう現実の中でイエスの福音よって生かされている。そして宣教する。イエスの福音

そして私の願うことはこの日本の現実の中で、私たちが一人の人間としてかけがえのない者で

あることを知って喜び、自分を含めて人間の尊厳が守られることのために働く喜びを知るということである。

だから国策によって個人の尊厳を省みられない人間がいる現実のなかで、私たちはこの現実を変える働きを

していきたいと思う。この行動はイエスの福音を実現する宣教である。

では具体的にはどうしたらいいのか。個人の存在、個人の尊厳、その基本的人権が十二分に尊重される文化、

社会、政治を作り出していくことだ。この取り組みには、長期的な視野に立つ粘り強い取り組みと、いまここで

尊厳の守られることを願っている人たちと共にあろうとする取り組みと二つがあると考える。前者を長期的立ち位置、

後者を短期的立ち位置として、具体的に私たちにできることは何かを述べる。

 

Ⅱ.私の長期的立ち位置

啓蒙と教育

私のなすべきことは啓蒙であり教育である。私はさまざまな場、多用な手段を用いて私の思いを発信していこう。

教会教育、社会教育、学校教育にて個人を重んじる心を育てる教育実践を行い、

またこの実践をすでに続けてきた方々と共に個人の尊厳を重要視する教育を広げることに努めよう。

このことと表裏一体のこととして主権者意識を育てる教育を実践しよう。政治を作るのは私たち市民である

という民主主義の主体の自覚を持った人間を育てるのである。

改悪教育基本法によって個人の尊重よりも国への忠誠心を求める動きが学校教育の現場、地域社会教育

の現場に浸透してきている。国家権力に教育の場を奪われてはならない、個人を育てる教育の場は国民のものであり、

その担い手は私たち国民であることが共有理解になるように努めていこう。

 

情報について

特定秘密保護法に象徴されるように、私たちはかつての「大本営発表」のごとき政府に都合の良い情報に

よって社会生活をせざるをえないようになる、という危惧がある。日常生活において手に入る情報を批判し

真実は何かを求めていくことを忘れてはならない。

それでは良質な情報をどのように入手すればいいのか。これには全国のメノナイトのネットワークによって

私たちが各地の仲間と直接出会ってそれぞれの生活現場で得た情報を突き合わせて検証できる定期的集会が

有効だろう。この意味で本セミナーネットワークにより多くのメノナイトの加入を求めその者たちによる定期的集会開催に努めよう。

 

日常の集会の場

それぞれの生活の場において、個人が育ち、良質の情報を交換できる集会の場を定期的に開催していくことが

ますます重要になってきた。私たちならまず礼拝、聖書研究、祈祷会、また家庭にての家族、親しい知人・友人との

自然な語らいの場をそのような視点でとらえ直し、改善すべき点があるならば手を加えて、自立し主権者意識を持つ

人間が育つ貴重な場として大切に継続していこう。また自分たちの集いを持つことに加えて、市民運動の集いに

参加するなどしてその活動に協力・支援し、個人が育つ文化をみなで作る喜びを分かち合い、なかなか自分たちの声が

行政に聞かれず政策になっていかないにもかかわらず運動を続ける者たちの励まし合う場を作っていこう。

 

Ⅲ.私の短期的立ち位置

バプテスマのヨハネは悔い改めて生き方の方向を変えよと宣教し、イエスはヨハネからバプテスマを受けたあと

「時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」(マルコによる福音書1章15節岩波訳)と宣言し、

すでに届いている恵み・福音を伝え、この福音・恵みの中での新しい生き方へと人々を招いた。私はすべての人にこの新しい生き方への

招きを語っていきたい。そのために私はイエスの福音によって、人間がどのようなことに目覚め、出会い、

どのような方向に向かって生き方を変えたかについて絶えざる学びを続けていく。また私たちの生活の場において、

イエスならどこに行こうとされるか、誰に会おうとされるか、誰と共に在ろうされるか、何を語りどうふるまわれるかを考え、

イエスの足、手、声となる者でありたい。

この願いを持つ私は、現在進行している政府による人権を踏みにじる作為、無作為の行為に対して、諸教会の仲間、

市民運動の人々と連携して抗議の活動を続ける。また、「いま、ここで」助けを求めている人に応えていく。

・骨抜きとなった「子ども・被災者生活支援法」が被災者の希望に沿うものになること

・特定秘密保護法が政府・行政に都合よく運用されてしまい国民の知る権利が破壊されないようにする

・専守防衛・自衛のための施策から、米国の利益追求の戦争に加担せざるをえない集団的自衛権への政策転換に反対し続ける。

私たちの国日本はちから・武力によって国家間の問題・紛争の解決をしようとしてはならず、実際に武力は紛争を解決できるどころか

新たな戦争の火種を作った。

・自分を含めて周りの人たちに政治に関心を持つよう促し、選挙の際に投票を呼びかける。

 

Ⅳ.まとめ

情報を得る場、教育の場、思想・信条・宗教心を自由に育む場、を政治権力に牛耳られてはならない。

私たちの国の歴史おいて牛耳られることはイエスが示している自らと他者に尊厳意識を持つ個人となっていくことが奪われることであった。

ルカによる福音書19章1節から10節によれば、ザアカイはイエスに出会い、イエスが自分の客になってくれることを通じて、

大きく生きる方向を変えた。自分で自らのなすべきことを考える者になり、自分のできることを実行しようと決断した。

ザアカイは人間は不正をして他の人間を苦しめてはならない、だから自分は他の人間に何ができるか、社会に対して何ができるか、

と生き方を質的に変貌させた。イエスはそういうザアカイを認めてこの人はアブラハムの子になったと言った。

自分の生きる現実の中に、抑圧と不合理と不公正とを認めてそれを克服する方向に自己を決意する、そういう個人へと

ザアカイはイエスによって変えられた。

私は、このような個人に、自分と周りの人々、社会を構成する全ての者がなっていくことを願う。私たち一人ひとりの国民が

現実のなかに抑圧と不合理と不公正を認め克服しようとすることを通じて、国民主権は実質となり、民主的な政治が行われる国になるのだ。

 

 以上、私は長期的立ち位置、短期的立ち位置から出てくる行動を続けていきます。

 

                        2015年9月26日  石谷牧師記

 

 

安保法のあと、さあこれからだ

 またしてもゆるしてしまった、という気持ちです。このたびの安保法の成立。

痛みとして思い知ったことは、「立憲主義」もこれを軽んじる者が政治権力を握れば、

ひとたまりもない、絵に描いた餅、「安全神話」に過ぎないということです。

 原子炉は多重防護されており、メルトスルー、メルトダウンは起こらないとされて

きた日本の原発、あの大地震・大津波の際に、それは安全神話に過ぎなかったことが

暴露されました、そのときと似たような思いです。

 まだまだ私たちが「安全神話」にひたっていることがあるように思います、たとえば

日本には徴兵はない、福島原発事故のような原発事故は起こらない、とか・・・。

 

 これからです。自然災害と人間災害(人災)によって、いのちとくらしが台無しにされた

これまでの歴史上のことが、またふたたび起こるのだ、という気持ちでこれから歩むことです。

自分は「安全神話」にひたっているのではないかと、これからはたびたび考えることにしましょう。

そのうえで現在のわたしたちと次に生まれてくる人たちの、いのちとくらしを守るために自分が

できることは何かを考え実行していく者になろうではありませんか。

 

 写真は安保法の廃棄を求めて、

9月18日(金)夕刻に自民党広島県本部前で行われた市民の集いです。

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           2015年9月20日(日)   石谷牧師記

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