9月から12月までの集会の予定をお知らせします。
主日礼拝 午前10時30分~
◎アデルフォイ 9/6,9/13,9/27,
10/4,10/11,10/18,10/25,
11/8,11/15,11/22,11/29,
12/6,12/13,12/20クリスマス礼拝,
新年礼拝2016年1月3日
9月13日は、宮崎・大分のメノナイト有志に賛同して
「憲法」をテーマに過ごす主日にしたいと思います。
9月20日~22日第8回平和セミナー 於・神戸教会
◎土曜日集会 9/5,10/3,11/7,12/5
◎読書会毎月1回 日程は石谷へ問合せください。
◎アデルフォイアシュラムは月曜日です。午前11時からです。
沈黙と黙想、共同の祈りと対話のひとときです
9/7,9/28,10/12,10/26,11/9,11/23,
12/7,12/21
◎石谷は被爆伝承講話を平和資料館地下で下記の予定で行います。
ご都合よければ聞きにおいでください。
・9月7日(月)14時30分から1時間です。10月以降も月1回講話です。
◎石谷牧師ジュノーの会への協力日 毎月第2、第4土曜日
以上
広島土砂災害から一年、そのときに思ったことを新たにしたく災害現場である、
緑井地区と八木地区を8月29日に訪ねました。
生活が再開されている家庭、更地となったままの敷地、人の住んでいない住宅、
修繕工事が行われている県営住宅、山の上の方では砂防ダムの築造・・・。
その一角に亡くなった方々を追悼する慰霊碑が作られていました。
ありし日の家並みが壁画として残されていました。
広島土砂災害によっていのちを失われた方々、残された家族、被災された方々を
思い黙とうを捧げました。
天災と人災にいつ遭遇するか分からない私たちです。
今日、みなとともに暮らしているということがなんと不思議なことでさいわいであることか。
いのちとくらしを自分で、意識して、できうる限り守っていく気持ちを忘れてはならないとの
気持ちを新たにしました。
2015年8月31日(月) 石谷牧師記
ルカ福音書19章1節から10節によれば、ザアカイはイエスに出会い、イエスが
自分の客になってくれることを通じて、大きく生きる方向を変えた。自分で自らの
なすべきことを考える者になり、自分のできることを実行しようと決断した。
ザアカイは、人間は不正をして他の人間を苦しめてはならない、だから自分は
他の人間に何ができるか、社会に対して何ができるかと生き方を変貌させた。
イエスはそういうザアカイを認めてこの人はアブラハムの子になったと言った。
自分の生きる現実の中に、抑圧と不合理と不公正を認めてそれを克服する
方向に自己を決意する、そういう個人へとザアカイは変えられた。
いつの時代も、どんな国、社会においても、求められているのは「ザアカイ」のような
人間ではないか。なぜならば、私たちの生きる現実には弱い立場の者たちへの、
抑圧、不合理、不公正がはびこっているからである。
だが幸いなるかな私たち。「ザアカイ」は常に起こされていく。私たち人間はいつでも
「ザアカイ」に成る可能性を持っている、いまこの時にも自分も隣り人も喜び生きる
ことを求めて働く者は常に起こされる。私たちもそのような個人に成っていきたい。
私たち一人ひとりの国民が日本社会の現実のなかに抑圧と不合理と不公正を
認め克服しようとするならば、国民主権は実質となり民主的な政治が始まる。
全ての出発点は、私たちがどういう考えと行動をする個人なのか、である。
この数年顕著になったことは、私たちの、情報を得る場と教育の場と思想・信条・
宗教心を自由に育む場とを、政治権力が牛耳ろうとする傾向である。私たちの国の
歴史から学べばこの傾向はたいへん危険である。私たちの国の歴史において、
この三つの場が政治権力に牛耳られることによって、イエスが示している、そして
他の宗教も教えている、自らと他者への尊厳意識を持つ個人に成っていくことが
奪われたのである。
ザアカイの生活した状況も、いまの私たちの状況も、自らと他者への尊厳意識を持ちにくい
ことでは似ている、だからこそ、「イエス」を告げる者よ来たれ、「ザアカイ」よ生まれよ。
2015年8月27日 石谷牧師記
私は被爆者の体験証言を伝承し、広島を訪れる子どもたちや大人に語ることをしています。
そのなかで学び深まることは、人間には恐ろしい面とすばらしい面の両方があるということです。
大量殺りく兵器の原爆はすさまじい熱線と衝撃波という破壊力を持ち、そしてその影響の全貌を
把握できない放射線を放出します。原爆、核兵器は恐ろしい。しかしそれよりも恐ろしいのは人間です。
原爆を作り生きた人間の頭の上に落としたのは人間。自分たちの保身のためにずるずると
負け続ける戦争をいつまでも止めなかったのは人間。それから70年、核兵器を抑止力と位置付け、
あるいは自分の利益を追求するために核兵器を作り続けているのも人間。
私たちは恐ろしい核兵器と人間に直面しています。
「でも」、「しかし」です。被爆者は教えます。人間には恐ろしい面もあるが、
それ以上にすばらしいところがある、原爆も破壊できなかったすばらしいところがある。
それは自分の体験を他の誰にもさせてはならない、人間のいのちは尊い、
そのいのちが守られるためにつらい思い出したくない被爆体験を語り出そう、という
被爆者の他の人間のいのちを守ろうとする気持ちです。
「人間のいのちは大切、自分の身も心も引き裂いた体験を他の誰にもさせてはならない」の
気持ちは被爆者だけではなく、従軍慰安婦をはじめとする多くの戦争体験者の叫びでもあります。
そしてこの叫びは私たちを動かすのです、人間のいのちが暴力・武力でそこなわれてはならない
と共感し、私の場合は自分も被爆者と共に語り出そうと決意して伝承活動を始めたのでした。
原爆も破壊できないものを人間は持っている、人間のいのちは大切であるという思いです。
「人間のいのちは大切」は私たちみんなが共有できることではないでしょうか。
私たちはこの思いを育て合い、分かち合い、具体的な行動の形にし合い、
そして次の世代に引き継いでいきたいと思います。
2015年8月26日 石谷牧師記
残念です、鹿児島県川内原発1号機(九州電力)が再稼働されたこと。
原発が動けば、電力は作られるが、誰かが原発運転によって被曝します。
燃料となるウラン採掘現場と原発現場で働く人間であったり、処理できない廃棄物を
先送りされた未来の人間であったり・・・。
また、地震に津波に台風に、火山噴火に大雨に、自然の脅威と背中合わせの
日本列島に原発は危険です。稼働に携わる人間は私たちと同じように誤りを
してしまうこともあるでしょう。ひとたび大事故が起きたらどうなるのか。
現在も続く福島原発事故の結果を体験している私たちの国で、なぜ川内原発が
再稼働されたのか。地域経済を支配する原発ムラ構造が狡猾に作られ、地域の
人々は生活のために容易には原発廃棄には踏み出せないのです。またこの構造に
よって経済的利益を受けている人間は、容易には金蔓(かねづる)の原発を手放せ
ないのです。原発の危険性を訴えて、原発が動けば人間が傷つくことを語り、
そのようにして人間の心が脱原発に変わっていくように行動を続けたいと思います。
いつか再稼働に反対する人間がもっともっと増えることで政治は変わることでしょう、
そのことを願ってできることを続けていこうと思います。
2015年8月11日 石谷牧師記
私は8時15分を牛田の不動院というお寺の境内で迎えました。あの日、多くの
被爆者が逃げ延びてきた爆心地から北の方にある寺です。蝉しぐれと幹線県道を走る
車両の音、被爆者と戦争受難者を思い祈り、また、これから少し先自分は何をするかについて、
導きを祈りつつ考えていました。
不動院を出て、平和公園に向かい舟入高校演劇部による原爆孤児の戦後をテーマにした
演劇、午後からは28歳で被爆し現在98歳の肥田舜太郎医師による原爆被爆と福島原発事故
による被曝に関する講演、比治山の放射線影響研究所に向かい低線量被曝の健康への影響に
関する展示、追悼平和祈念館にて被爆証言朗読の会、最後は元安川の護岸に座り、流れてくる
灯ろうを見つめながら教会の友と一日を振り返ることでした。
被爆者に戦争受難者に死んだ者にも生き残った者にも唯一の出来事と唯一の思いがあります。
それをやはりていねいに見つめてゆくことを忘れてはならないでしょう。それと同じくらいに、
だれがなにが被爆者と戦争受難者を作ったのか、そのだれと、そのなにが、は現在もう消えたか、
についても、わたしたちひとりひとりが追求していく、その火種が消えていなければ消していく、
ことも続けていきたい、そのように考えています。
2015年8月8日 石谷牧師記
私の小学校・中学校の通信簿に、受け持ちの先生は「協調性があります」と書いていました。
私はほめられているようでなんとなく誇らしく感じていました。わがままでなく、困らせるような
こともせず「いいお子さん」だったように思います。社会人になっても協調性はわりにある方
だったと思います。
しかしこのごろになって、協調性よりも大切なものがあって、それは孤立を恐れず自分の良心の
声に従い、意見を述べたり、主張をする、行動していくことだと考えるようになってきました。
長いものに巻かれていく自分を相変わらず持っていますが、育てていきたいのは、
一人ひとりの人間の存在を重んじるこころ、その実現の行動を自分らしくできる自分。
イエスの接待に忙しい姉マルタのことは気になるが、今の私はイエスの語ることを聞きたいと足元に
座り込んで耳澄ますマリア(ルカによる福音書10章38節以下)、自分のこころの促しを優先して
父のもとを出て遊びほうけた弟(ルカによる福音書15章11節以下)の体験とその帰還を喜ぶ父。
協調性よりもまずはあなたの内面が深まるように、とのまなざしの中に私たちは存在している
ように思います。
ふたつの物語には、姉のマルタと兄がでてきます。周りからの期待や自分の役割を,
自分で作ってけっこうそれに縛られている二人の姿は私たちの姿でもあるのではないでしょうか。
しかし、あなたも好きなようにやってごらんのまなざしのなかに、このふたりこそ,
そして私たちこそ存在しているのだと思います。
2015年7月29日 石谷牧師記