お知らせ

ことしもクリスマスの季節を迎えました

   ???????????????????????????????

 

 

 2014年、ことしもクリスマスを迎えることができました。

大切なことですが、私たちが日常の暮らしのなかであれこれと悩んだり、

あれもこれも実現させようと四苦八苦していることはあっても、

そういう私たちのもとにクリスマスの季節が訪れてくれたということ。

しばし手を止め、語るのを止めて、むこうがわからやってきて、

わたしたちを包んだクリスマスに耳を澄ませるときです。

 写真は平和記念大聖堂(広島市中区)にて

 

          2014年12月4日  石谷牧師記

マッチ売りの少女、のような一枚の挿絵から

 

    img005

 

 

 この挿絵は2014年11月24日(月)毎日新聞コラム「風知草」に

ありました。 日本社会に浸透している「こどもの貧困」に苦しむ

子どもたちに、政策でもって応えようという主旨のコラムに添えられた

挿絵です。

 なんともさみしい、私はこの絵に心を奪われる思いです。

現在わが社会では6人に1人の子どもが貧困家庭で育つとありました。

食べて、夢をもって、夢の実現に取り組むことができる、このことが

困難な環境に生きる子どもたちがすぐそばで生活しているのが、

私たちの日本社会の現実なのですね。

 いつの時代も子どもたちが次の時代を切り開いていきます、

こどもたちは社会の宝です。

宝なら宝とする政策が急ぎ求められています。

今度の投票にはこの思いも込めたいです。

 

「貧困率」、「こどもの貧困(岩波新書)」、児童扶養手当、

民主党政権で導入、自公政権で廃止された「こども手当」などが

紹介されていたコラムでした。

 

       2014年11月25日 石谷牧師記

 

 

 

11月のメッセージ(要約)  「ひとりと九人の間を」

新約聖書ルカによる福音書17章11節~21節

 

 そのひとりのサマリア人らい病者はイエスと出会ったとき、いったい

どんな気持ちだったでしょうか。

 彼は、部族的にはサマリア人とは憎悪と反目の関係にあったという

ユダヤ人、のらい病者九人とともにおりました。らい病を発症した彼が

生きていくためには、集団のなかの片隅にでもいた方が食糧等を確保

する上で好都合だったと推測できます。

 その彼がユダヤ人イエスと出会います。願いはもちろんらい病からのいやしです。

「イエスよ、わたしを憐れんでください。らい病から解放してください。」

その心境とは。

私はらい病から直りたい、

だが私はサマリア人だ、ユダヤ人のイエスが、そしてユダヤ人の神が

私をいやしてくれるだろうか、という疑い。

いや、そうではない。神の前に、ユダヤ人もサマリア人も男も女も

成人もこどもも義人も罪ある人もないのだ、みなを恵まれる、という疑いの打ち消し。

 

 私はこの人は、このとき三重苦のなかにいたと思います。

サマリア人という差別される側にいる。

同じサマリア人からも、らい病を発症したために追い出されて、ものごいの

ようにして生きている。

生きるために身を寄せたユダヤ人らい病者のなかでも、ひとりである。

食糧を分けてもらうことから始まって、肩身の狭い思いでいたのではないか、と

私は想像します。

 

 そういう彼が、自分は直りたいと思う、もう一度家族のもとに、地域社会のもとに

帰りたいと思う、この思いは切なるものであり、

イエスが当時の取り決めであった、らい病からのいやしを祭司に証明してもらうために

祭司のもとへ行け、と命じたとき、

自分も直してもらえるのだとの期待はいっそうつのり、疑いを打ち消し打ち消し、

祭司のもとへ急いだのです。

そして、まだ祭司のもとにたどりつく前に、全身にらい病からのいやしを実感した。

たんにらい病からいやされたことでない、いままでの自分の世界に、

「自分は自分も恵まれている」という実感が突入してきたようなめざめ・覚醒。

そして、すぐに、もう祭司のもとには行かずに、イエスのもとへ戻ってきた。

 

 イエスはひとりの人に言うのです。

「立ち上がって、歩んでいきなさい。あなたの信があなたを救った。」

ユダヤ人もサマリア人もない、神は全ての人間のいのちに眼をかけ恵まれると、

こころに感じたこのひとりの人の願いどおり。願いは信でしょう、そして

疑いは打ち消されるのです。

「神は全ての人間のいのちに眼をかけられ恵まれる」とはイエスのさししめした福音、

神がイエスをとうして私たち人間にしめされている神のこころ。

だから、このひとりの人は、いわば福音に出会い、神に出会っているのです。

安んじて、立ち上がり、あなたの出会っている福音のうちに、福音をたずさえて、

あなたの道を歩んで行きなさい、できうれば、わたしたちも

このひとりと同じような促しに生きたいものです。

 

 さて、九人はどうなったのでしょうか。

この人たちもらい病を発症したことで困難と悲しみの中にいたのです。

らい病者は感染を恐れられて、民の中から追い出されて、健常者との接触を

禁じられ、食糧を恵んでもらって生活をしていました。イエスと出会ったときも、

彼らは「遠方に立って」声を挙げて「私たち憐れんでください」と願ったのです。

そして、祭司にいやしを見せに行く途中で、いやしを実感した。

そして、祭司に証明してもらい、家族と地域社会のもとへ帰っていったと思われます。

 

 けれど、この九人はイエスの福音には出会っていない。

この九人は神には出会っていない。

サマリア人らい病者のいやしを間近に見たにもかかわらず、感動も自分への省みも、

サマリア人と共に喜び一緒になってイエスの元に戻ることも、何も起こっていない。

ただ、自分の願っていたことが実現した、それだけのことです。

こののちも、サマリア人を見る目はいぜんとして憎悪と反目だったかもしれません。

 

 なぜ、こんな事態になるのでしょうか。

福音に出会っていながら、九人の福音にはなっていない。

福音は私たち人間にどう受けとめられていくか、厳粛な人間側の事実がここには

あると思います。私は、私たち人間には恐るべき自我と自由が与えられていると、

思っています。

 

 さてさて、私たちのことです。

今やすでに、ユダヤ人もサマリア人もギリシャ人も日本人もないのだ、

男も女も成人もこどももない、義人も罪人もない、どんな人間のいのちも

神のまなざしの中で尊く、神みずからしもべのすがたとなって大切にされている、

という福音、が分かっているひとりでしょうか、わたしは、あなたは。

願ったことを体験して、それで終りにした九人でしょうか、わたしは、あなたは。

 

 わたしは思います。

この世界、この日本社会、なんと大切にされていない人間のいのちがあることか、

わたしは九人のようではあろうとは思わない、大切にされない人間がいてもよいという

社会にしたくない、そういう社会を次の世代という隣人にも受け渡したくない、

自分のなかにある、強い九人への傾きには抵抗したい。

しかし「傾く」自分がいるのが分かっているので、

欠けなく十分に福音を生きている「ひとり」ではない。

わたしは、自分は「ひとりと九人の間を」生かされていく、と思っています。

あなたはご自分のことをどう思われますか。

 

 あなたと語らう日を楽しみにします。

 

            2014年11月24日  石谷牧師記

 

 

 

 

 

 

「なくてはならない塩、そして投票に行こう」

 このごろ食事を自分で作ることがあります。

ご飯を炊き、味噌汁、チャーハン、肉を焼いたり、

魚を焼いたり、目玉焼きを作ったり。

楽しいですね、作っている間に食欲も出てきます。

しかし、どんな料理も塩かげんがむつかしいですね。

塩が多いと食べられず、少ないと物足りず、適量と

思っていても、健康の点からはたいていは過多となっている。

食材を相手に塩かげんを上手に塩梅(あんばい)できるようになる

ことはすごいことだ、食事作り超初心者の感想です。

 

 イエスのことばに、「あなたがたは地の塩である」があります。

地を、世の中、家族、知人、隣人と言い換えてみて、

たとえば、私がボランティアを一緒にしているひとりの仲間にとって、

塩の働きをする、と考えてみます。

「あなたはそのボランティア仲間の塩である」というわけです。

 

 その方が、ご自分の生きることを喜び健やかな気持ちで

日々歩んでいる、さらにその仲間のよいところが引き出されている

ことに、私が少しでも用いられるならば、私はその方にとって「塩」

となれるでしょう。いい「塩かげん」なのです。

 しかし、その仲間にとって私の塩が濃くて強すぎるなら、

仲間は閉口し困って、その個性・たまものの成長に私は役立てないことでしょう。

私の塩が弱い場合も同じようなことになるでしょう。

 

 (この文章では、じつは「塩が弱い」ことが気がかりなのです。)

 

 食材に対してもさることながら、私たちが、私とは違うそして誰ひとり同じ人はいない、

そういう隣人にとってよき塩である、よい塩かげんであることはむつかしものだと

自分を省み思うのです。

 

 にもかかわらず、「あなたがたは地の塩」である、とは。

なんともとらえどころなく見えて、不格好にも見える歩みかもしれませんが、

独自で個性を持つ世界に一人しかいないその隣人にとって、私がよき塩である、

ことはむつかしいことだ、

でも、あなたは、私は、ときにはよき塩の働きをできるといいなと思って生活をしている。

このことが私には不思議なのです、そして「地の塩」であるとはこのことかと思うのです。

 

 地を「現在の日本社会で省み見られることの少ない人」と言い換えてみます。

「あなたがたは現在の日本社会で省み見られることの少ない人の塩である」。

 

 現在政府に、そして政府は私たちの選挙の結果であるので、

私たちという社会において、なんと省み見られることのない人たちが大勢いることか。

福島原発事故によってそれまでの生活を一変させられてしまった人たち。

3年8ヶ月にわたる外部被曝と内部被曝によると思われる健康障害を訴える人たちの

ことがインターネット上では出てきています。

このたびの沖縄知事選挙、現職26万票、そして翁長さんには36万票。10万票の

大差をつけて普天間飛行場の辺野古移設をしてほしくないと政府に表明した沖縄の人たち。

沖縄県の全市町村を挙げて政府に提出した建白書と同じように、政府がこのたびも

沖縄の人たちの意思を省みないとしたら、いまの政治はだれに向かって行われている政治か、

すぐにも分かるといいうものです。

低賃金で正規雇用者と同じ労働をしている非正規雇用と呼ばれる人たち、

いったいいつからこんなことが当然視される労働環境の蔓延となったか。

日の丸と君が代を拒んだことで、卒業式にグランドでの駐車場整理を

命じられた教職員たち。十分に食べることができずにいる全国各地にいる年金生活者、

そして母子家庭、社会的弱者とよばれる人たちの現実。

日本社会全体を良くしていこうという意識を持てなくなった若者たちと富裕層、

そこに深まる断絶。武力ではなく対話と軍縮で外国との争いの種をなくそうとの声。

デモ行進を続ける特定秘密保護法を危惧する人たち、原発再稼働に反対する人たちの

声はなかなか政策にならない。

日本社会に生きる人間の現在はどうなっていますか、そして近い将来はどうなりますか。

省みられないのは、わたしでもあります、もしかしたらあなたもかもしれませんね。

 

 私たちから始めませんか。

すこしでも現在だんだんと省み見られることのなくなった、

しかしこの社会で生活を続けている人間の生きることに、

用いられるといいなという歩みを。

 

 私は周りのみなさんを誘っています。

今度の衆議院選挙は、私たちが「省み見られない人の声として用いられる」

グッドチャンスです。

けっして、アベノミクスへの審判だけではないのです。

私たちの思いと納税金の使い方を託す政治家、政党を選ぶ機会なのだから

よく考えて、ともかく投票に行こう、と。

ここまで読んでくださったあなたもお誘いしたいです。

 

   2014年11月21日(金)  石谷牧師記

 

白い山茶花(さざんか)の花が咲きました

???????????????????????????????

  今日は8月に発生した「広島土砂災害」から三か月。

私たちが災害列島に住んでいることを忘れてはいけませんね。

 

 アデルフォイの庭で秋が深まり、冬が訪れています。

かわいい白い山茶花(さざんか)の花が庭のかたすみで

咲いていました。

 

      2014年11月20日 石谷牧師記

 

 

南天(なんてん)の赤、川内原発再稼働

 

 ???????????????????????????????

 今日11月7日(金)は立冬。

アデルフォイの庭に今年も赤い南天の実を見つけました。

私たちの住む日本列島は大きな時間の流れの中では、

春があり夏になり秋が訪れ冬になる、今年もそうですね。

南天の実も「そうですよ」とささやいています。

 

 にもかかわらず、台風と火山噴火と大地震と大津波という

自然の営みが続く日本列島の上で、まだ原発を再稼働させて

電力を作ろうとする政策を、本当にまだ続けようとするのでしょうか。

九州電力川内原発再稼働に地元議会、知事が同意、

私は福島原発事故の衝撃が忘れられず、やっぱり、

私たちの住む日本列島には原発は危険施設である、

廃炉にしていくのが一番いい選択である、と思っています。

 

 南天の赤い色、きれいです。人間がこの移ろい変わる

赤の色を作れるでしょうか。自然にたいして謙虚になります。

 

          2011年11月7日(金) 石谷牧師記

 

 

 

 

10月31日宗教改革記念の日に

 今日は、16世紀ヨーロッパに起こった宗教改革の、わたしにとっての意味に

ついて考えることでした。イエスの前に人が「個人」として立つことが回復された日、

そしてこのことから始め、常にこのことに立ち帰っていく人々の列が今日まで続いて

いる、私もメノナイト派の一員としてこの列の中にいるのだということ。

 

 イエスの前に「個人」として立てることは恵みである、

そして「すでに恵みを受けたる者になれ」と鋭く自分の在りようが問われることである。

わたしはすでに大いなる赦しの内にある、そうであるから、赦しを受けたる者になれ、

という緊張、背中を押されるような招きを感じます。

宗教改革によって与えられている私のチャレンジです。

 

               2014年10月31日 石谷牧師記

2014年11月、12月、2015年1月の集会案内

 2014年11月から2015年1月までの集会予定をお知らせします。

どうぞご出席ください。

 

主日礼拝 午前10時30分~

◎アデルフォイ 11/2,11/9,11/23,12/7,12/21,12/28,

1/4,1/11,1/25    12/21はクリスマス礼拝です。

※11月30日の主日は家庭礼拝をお願いします。

※12月7日は礼拝後アデルフォイの美化に取り組みます。お掃除、花植え、

種まき、庭の草取りなどを手分けして行いましょう。

◎発達ルーム「そら」主日礼拝

11/16,12/14,1/18

樹・音(じゅね)の練習もします。

◎アデルフォイ土曜日集会  午後1時30分~

11/18(火),12/27,1/31

◎アデルフォイアシュラム火曜日の集い午前11時~

  沈黙と黙想、共同の祈りと対話のひとときです

11/11,11/25,12/9,12/23,1/13,1/27

 

◎読書会毎月1回 日程は石谷へ問合せください。

◎石谷牧師ジュノーの会への協力日 毎月第2、第3土曜日

◎私たちの教会のホームページでは折々のニュース、

礼拝メッセージ(要約文)などを掲載しています。

周りのみなさんにぜひご紹介してください、よろしくお願いします。

http://tadayuki76.sakura.ne.jp

「広島メノナイトキリスト教会」でも検索できます。

 

 

                                    以上

 

10月のメッセージ(要約) 「先ず、イエスに聞け」

 大学入学は知識と知恵を得ることを保証するものでは、ありませんでした。

求めるこころが必要だったと思います。

 優れた技量を持つ師匠に弟子入りすることが、自分の技量を高めることの

保証には、ならないことを痛感しています。練習に練習を重ねて、体得するだけです。

 キリスト教だけではないと思いますが、宗教に入信することは、問題の起こらない生活、

安心で満ち足りた生活を保証する、ものではありません。

私のことで言えば、キリスト教の洗礼を受けて40年、洗礼を受けることは、悩みに直面しない

保証を得るようなことでは、ありませんでした。ですが、自分を元気づける、立ち上がらせる

岩清水を飲むようなことがあります。

 

 新約聖書 マルコによる福音書4章35節~41節。

 イエスと同じ船に乗り込んで勇んで漕ぎだした弟子たち、漁師出身の弟子は誇らしく櫓をこぐ

ことだったでしょう。ところがどうしたことか、突然に嵐が起こり、波はさかまき船には浸水が始まり、

このままでは沈没してしまう・・・・。

 イエスがともにおりながら、どうして悩み、危機に直面し、なすすべもないような状態になるのか。

 イエスを信じることは、安心、安全を保証するのではないのか。

 

 宗教に帰依(きえ)することは、現実生活での安心、安全を保証するのでしょうか。

 

 旧約聖書の信仰の人々。アブラハムの外国で生き延びていく上での苦労、ヤコブの伯父さんの

もとで味わう悩み、ダビデ王の栄光に差し込む影。新約聖書のイエスの歓迎と敵意のふたつを受けた生涯、

パウロのエルサレム教会と異邦人の地で作られた教会と結ぼうとする涙なしには語れぬ苦労、

キリスト教会歴史上に起こったできごとを思い起こしてください。

 

 ところが、この悩みと不安のさなか、

「インマヌエル」「神がわたしたちとともにいます」ということばが、しずかに聞こえてくるのです。

イエスを信じている、宗教を信じていることは、安心、安全、豊かになること、満ち足りることを、

保証するのではない、

そうではなくて、不安を感じる時、悩みの時、どうしていいか分からない時、「わたしに聞きなさい」

「わたしのもとにきなさい」、「わたしはあなたに必要なことを語る」「行う」、ということば、呼ぶ声が

聞こえてくるのです。

 

 不安、悩みの時、私たちは、だれに、その悩みと不安を打ち明けますか。

だれに、その解決を求めますか。

 

 沈没しそうな船のなかで、弟子たちは、イエスに対して、自分たちのどうすることもできない状態をさらけだし、

なんとかしてほしい、自分たちはどうしたらいいのか、と激しく問うたのです。

 

 私はこの弟子たちのイエスに立ち向かう姿勢に、私たちにもあるといい「信仰」があると感じたのですが、

イエスは弟子たちに「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか。」と語ります、

イエスが「わたしのお父さん」と呼んだ神に抱いていた「信仰」とはどんなだったのでしょうね。

 

 いま、あなたはどんな不安を抱えて生活をしていますか。

私も不安を抱えています。健康寿命でもって長く長くみなさんと交流し社会を見つめていけるだろうか、

そういう生活を支える経済的基盤をどう確保していけばいいか、という「個人生活上の不安」。

そして「社会に感じている不安」、これは個人の基本的人権が巧妙にあからさまに軽視されるように

なってきた昨今の政治、社会的風潮、そして私たちを支える・セーフティネット・社会保障が十分でないことも

原因と思う暴力行為の蔓延、このような状況を生み出している私もその一員であるこの社会の精神文化。

 

 不安を抱えているのであれば、イエスに問うてみましょう。

彼は、見ること、触ることはできませんが、私たちにはその生涯と言葉とがあります。

彼を思い浮かべれば、小さな声を聞くことができます。 「先ず、イエスに問え、イエスに聞け。」

 

 「あきらめる」は「明らめる」、明るくさせる、はっきりさせる、ですね。

私の不安へは、イエスからこのような声が届きました、はっきりさせられた気分です。

長く健康寿命を保ちたいなら、自分のできる範囲で心身に良いと自分が思うことをすればいいのです、

経済的基盤のためには、心身に無理ない労働を続ければいいのです。

社会に対する私の不安の内容は、イエスも解決できなかった、現在までも解決できないでいること。

ただ、聞こえてくるイエスの声があって、「一人の人間を尊重しその尊厳を守ることを自分は行った、

次の世代に引き継いでもらうことを自分は願った、そして営々と引き継がれてきているではないか。」

私もこの営々と続く人々の列に加わればいいのです。

 

 あなたに不安があるのならば、あの弟子たちのように、「先ず、イエスに問い、イエスに聞く」ことだと

思います。

 

                          2014年10月22日 石谷牧師記

 

つわぶきの花が咲きました

  10月も中旬、広島は朝晩に肌寒さを感じるように

なりました。アデルフォイに庭には、「ほととぎす」に続いて

「つわぶき」の黄色の花が咲きました。キク科の常緑多年草、

初冬に咲くと聞いたことがあります、アデルフォイの庭で

いちはやく冬の訪れを感じたのでしょうか。

 

???????????????????????????????

 

 

            2014年10月16日 石谷牧師記

 

  • 13986総訪問者数:
  • 5今日の訪問者数: