ヨハネ福音書の最終章は人間の食欲を考える上でたいへん興味深いです。
なんとイエス自らが、弟子たちのために火をおこし、パンを準備し、魚を焼いて
食べさせたというのです。そのときの弟子たちは、師であるイエスが殺害され、
自分たちにも及ぶ危険への恐れと師を捨てた自責とで心は沈んでいたのです。
決まり切ったことに身をゆだねるようにして漁に出ましたが、魚は一匹も獲れません、
なんとも元気が出てこない状態であったのです。
こんなときは食欲は落ちていることでしょう、食べない、食べれないから元気はますます
出てこない。私たちの実生活にも似た日々はあるではありませんか。
そんな弟子たちにイエスがしたことは、食べるものを準備して、しかも弟子たちの
食を増進させるようとパフォーマンスその場を盛り上げたのです。
きっと弟子たちは導かれるようにして食べ始めていったことだと思います。
食べると元気がでるのです、食べる人間は元気がいいのです。
幼子から高齢者までの普遍の原理です。
貝原益軒著『養生訓』に「胃の気とは元気の別名なり」ということばがあるのを知りました。
ある方は「胃の気」とは、ごくごく分かり易く言い直せば「食欲」だと教えてくれました。
食欲は元気の別名である、ということでしょうか。
だから食欲をおとさないような、食欲を保つような、生活の仕方をあなたが主体性をもって
実行すれば元気でおれる、ということでしょう。
健康作りの主人公は医者ではなく自分なんだ、という当たり前のことを「食欲」から知ることです。
イエスが弟子たちの生きる元気、生きる意欲を復活させようとして、まず何をされたか、
食卓を準備された、食欲を引きだそうとされた。実に人間の生きることに通じたふるまいでした。
それにしても私たちの誰にも備わった「食欲」は、人間よ生きよ生きよとの福音、恵みですね。
ヨハネ福音書にあるこのお話を、食欲と元気のつながりに展開しました。
2015年5月11日 石谷牧師記
マルコ福音書14章26節~28節。
イエスの弟子たちは強くないのです。イエスの側近中の側近として右と左に
置いて欲しいと直談判したヤコブ・ヨハネ兄弟、イエスからリダーとして認められた
ペテロをはじめとして、全員がイエスが捕えられる場から逃げていったのです。
私たちはどうでしょうか。自分が不利益を被るかもしれない、関われば今までの
ようには生活できなくなる、面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ、と思ったことからは、
逃げる、避ける、離れる、関わらない。私は中学生のころ意地悪な眼つきをした者たちに
取り囲まれていたおさななじみをとうまきにしていた者の一人となった自分の姿を忘れたことは
ありません、その時私は涙を流していました。
それから現在まで、イエスの弟子たらんと心に決めてからも、幾度となく私は自分かわいさから、
いくつかの場から逃げてきたのです。
そこにいた人がいます。まだそこにいる人がいます。だから私はできるだけ長く生きて少しは
人たちに喜びと笑顔が生まれることに用いられたいのです。
エデンの園にて禁断の木の実を食べて隠れたアダム、ペテロは私の姿でもあります。
自分を優先することは個人のレベルにとどまらないように思います。
日本国は戦争相手国であった米国、軍事力で紛争を解決できるとする米国の同盟国となる
選択をしました。ロシア、中国から国を守れるとますます同盟に深入りしていこうとしている。
しかしこの選択はアジアに緊張と不信を増す危うい選択なのではないかと私は不安なのです。
日本国の利益のために、どこから離れどこに身を置くか。
自分が大切な人間とそのような人間の集まった政治の選択は同質になるのです。
でもそれでいいのか。それだけでいいのか。そのようにみなが生きることで何が起こるか。
逃亡してしまった弟子たち。イエスを裏切ってしまった自分の姿に激しく泣いたペテロ。
この弟子たちがふたたびイエスの弟子たらんと行動を起こします。何が弟子たちに起きたのか、
それが弟子たちにおけるイエスの復活です。
みなさんは「復活」をどう思っていますか。
イエスは自分を捨てるであろう弟子たちに、
「ガリラヤに先に行っているぞ、後から来なさい、ガリラヤで会おう」と語りかけます。
弟子たちは「ガリラヤで会おう」と自分に向かって言ったイエスを思います。
「ガリラヤ」は自分のふるさと、生活の場。そこに生きる者たちの中には、喜びと笑いがある、
一方で差別、さげすみ、疎外、病気、仲間はずれ、自分をいちばん大事にする人間たちが作る
人の世。そこでイエスは「迷い出た一匹の羊を探す羊飼い」「放蕩に崩れた息子が無事に戻って
来たのを喜ぶ父親」「短時間しか働かなかった者にも相当の賃金を渡す雇い主」のたとえに、
だれもが大切ないのちとして愛し恵み導こうとする愛の神の姿を込めた。
そして友のいなかったザアカイの客となり食べ飲み語り合った、その食卓は入場自由、病気、
貧困、孤独、自分探し、求道者、それぞれの悩みを抱えた多くの者たちが集まってきた。
そしてみんなが何かを得て、来たときよりも明るくなった、笑う者もいた。ひもじさから腹を満たした者もいた。
「サマリア人のたとえ」もあった。関わりたくないできごとを避けて生きることでいいのか。人間の生きる場を
そんな考え方、生き方で満たしていいのか。生きる姿勢としては、試みるべきは、それが十分できない
にしても、自分を愛するように隣り人も大切にすることなのではないか、とイエスは願った。
ガリラヤ、イエスが実現しようとしたそのようなガリラヤの人間の生きる場。
そこで会おう、とは、逃亡してしまった自分へのゆるしと一緒に実現しようという招きなのではないか、との
思いが弟子のこころに充満してくる、それは確信になってくる、まるでイエスが直接に自分に語りかけてくる
ようだ。不思議なことですが、弟子たちに生まれたイエスの復活、だったと私は思います。
そして、私にもイエスのことばとふるまいとが大きな導き励ましとしてわが内に脈打つのです。
私は周りの人たちを大切にしていきたい、そして同じくらいに私たちの日本社会を「愛の文化」と
「自分たちの生きる場をみなにとって幸いな場にしていくのは自分たちであるという文化」で満たしたいと、
このごろ深く切実に思う私はガリラヤのイエスによって生まれたのだ、そんな気持ちになるのです。
あなたにイエスが復活しています。
あなたは自分を大切にしたい、そして家族をはじめとして周りの者を大切にしたいと思っている、
それはイエスのこころでもあります、イエスがガリラヤで一番大事にしていたことです。
人を大切にしたい、この気持ちは「愛」ですね。
こどものころ遊びほうけて約束した時間に遅れて帰宅した私を、両親は叱るのではなく、心配したよ、
無事に帰って良かったと迎えてくれました。相手の非を責めて自分の気持ちを満足させるのではなく、
無事を喜び合う、これはわたしが両親から学んだことです。この学んだことを自分も同じようにしていきたい
と思うときに両親は私のうちに復活してきます。愛こそがイエスに繋がることです。
あなたには愛がある。あなたのうちでイエスが復活していると、私は感じています。
2015年4月13日 石谷牧師記
マルコ福音書4章3節から9節のたとえを読みながら考えました。
私にとって種はあの敗戦の体験とそのあとの70年の日本社会の歩み。
現在(いま)この種が蒔かれています。
あの敗戦の体験。
敗戦で痛切に感じたこと、戦争はいけない。ちからで自分の利益を追求しても
憎しみと争いが生まれ人間の死が引き起こされるだけだ。政府、政治、軍の指導者は
必ずしも国民本位には動かなかった。
この体験の種が国民に蒔かれて70年、種はどうなったのでしょうか。
たとえには種が育たない、道端、石地、茨の中がでてきます。
私はこのごろの、敗戦という体験が私も含めてまだまだ国民生活のなかに活かされていない、
と感じるようになりました。たとえば70年をこう言っても少しは言い得ているのではないでしょうか。
経済的な繁栄、お金持ちになるために持てるものを総動員して資源と安価な労働力を求め、
作ったものを売りつけて利益を獲得してきた。その結果は、一部の者はぜいたくに暮らし、
多くの者は貧困に苦しむ世界と日本社会の現実。
70年間、とにもかくにも親米路線、かつ国民主権ではなく国民統制国家主義に向かって
歩んだ政治と政府。親米である限り米国政府は日本政府と日本の政治家を手離さない、
米国政府を後ろ盾にすることを選んだ政治家は安泰、長期政権はいまだに続いている。
少しのぜいたくとすこしの貯金ができた者は、敗戦の体験から教えられたことを
忘れた、子どもに伝えることもしない、歴史から学ぶことを放棄、思考停止。政府のしてくれる
ことに間違いなしと安全神話に浸りきる。
私はあの敗戦という種は日本社会にいまだ十分成長しているとはいえないと思います。
だからこれからのことです。 現在、種は蒔かれようとしています、もう一度。
種はあの敗戦の体験とこの70年間の私たちの日本社会の体験、ふたつがひとつとなった
種です。
この種を育てたいのです。
このままでは私たち国民は危ういと感じてます。武力で自国の利益を追求してきた米国との
同盟を強固にするだけで良いのか。私たちは自分はどんな生活をおくりたいのか、そして
明治以降、日本がしてきた戦争によって国民生活はどうなったのか、一人一人がまじめに
考えて考えたことを社会生活の中に反映させていく努力をしなければと考えるのです。
地には種が育っていく良い地もあるとのこと。
これが希望です。
70年経ったこれからのときは、種が大きく成長して実を結びますように、
まずあなたと私良い地にしてくださいと求めましょう、
良い地が起こされることに用いてくださいと求めましょう。
2015年3月31日 石谷牧師記
大地震・大津波、福島原発事故から4年の昨日、
私は「福島原発告訴団事務局」の方のお話をお聞きすることが
できました。その方が語られたことは岩波新書
『原発と大津波 警告を葬った人々』(添田孝史)でも読むことができます。
その方は体調不良を訴えるこどもについても触れました、体調不良と放射線による
被曝との関係は不明である、証明されていないとの医師、行政の姿勢によって、
体調不良はこどもと家族で受けとめざるを得ない現状とのこと。
被曝は細胞分裂の活発なこどもに影響が出やすい。1ミリシーベルトを超える
放射線量のなかで4年間暮らしているこどもたち。
ああ、こどもたちに安心を贈りたい。
夕方、私は山口県上関に原発を造ろうとする中国電力に「造らないでください」
と訴える市民デモに参加しました。写真はデモ出発前の集いです。
2015年3月12日 石谷牧師記
礼拝堂アデルフォイのそばに咲いた蝋梅(ろうばい)の小さな花です。
思わず香りを確かめたく近づきました。寒さはまだしばらく続きますが、
春の気配は感じられます。読者のみなさまの身近なところでも同じで
しょうか。
「シャルリーエブト」事件をどう考えればいいのか。
イスラム教徒が大切にしているムハンマド(マホメット)の「風刺画・記事」に
ついて見ていない読んでいないのですが、そして暴力でもってそれに
対する抗議、不満を表明することにも、もちろん反対する私ですが、
「風刺画・記事」がイスラム教徒にとっては暴力行為になるのではないか、
という気持ちになるのです。
自分がして欲しくないことは相手にもしない。
キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒、信仰を持たない者、世界に
さまざま信仰を持つ者がいます。その人々が平和を分かち合い享受して
いくために大切なことは何でしょうか。
イエスを自分のキリストと感じているキリスト信者にとって、もしも、
執拗に不快な表現でイエスを風刺する画や記事が発行されれば、
その意図は何かと、マスコミと社会に不安を感じることでしょう。
信仰、考えの違う者たち、自分とはまったく異なる信条を持つ者たちで
作り合っているのがこの社会、世界、人の世です。
少数者と多数者という関係もあります。
大切なことは、ひとりひとりが、
自分にして欲しくないことは相手にもしない、ことを大切にして、
その上で「表現の自由」「出版の自由」を駆使して、
この世界に生きる者、同じ人間たちの平和を作り出すことはないでしょうか。
暴力による抗議を否定しつつ、このたびの「シャルリーエブト」事件を
考える私です。みなさまはどう思われるでしょうか。
2015年1月14日 石谷牧師記
17日(水)朝の広島市東区の牛田山です。昨晩からの雪は今日一日
降り続ける予報となっています。雪の多い地域のみなさんは雪かき、
道路の歩行、買い物、通勤時間、寒さ対策、などなど、雪の中で生活を
続けて行くことでたいへんなエネルギーを使っていることでしょう。
けがなどありませんように、ご自愛なさってください。
さて、14日の衆院選挙の結果には落胆いたしました。
しかしがっかりする一方で、わたしたちの取り組むことが改めて示された
という思いです。
落胆のひとつ。
低投票率には、野党に責任がある、選挙の争点は多くの国民も
感じていることでわざわざ投票すべきことではない、などとの説明が
ありますが、私には、根底には国民のなかに政治の担い手は国民で
あるという意識、そして投票という行動でその政治を自ら作っていくのだ、
という精神文化の未成熟さがあるように思います。
自分の利益、幸せだけではなく、社会全体の、これからの世代の
幸いを作っていく政治を自分たちが作っていくという精神文化。
私たちは自分たちの生活と政治を結び付けて考え、投票を通じて
その意思を表していくことが市民生活の当たり前の雰囲気になっている、
そんな家庭、教会、地域、地域が集まった社会、国作りをしていきたい
ですね。この雰囲気作り、精神文化作りには長い時間と幾世代かの経験が
必要かもしれません、すでに世界中の先達たちによって始まっている
ことでもあります、私たちも心新たになって加わりましょう。
私と同じようにこのたびの選挙結果にがっかりされている方もおられる
かもしれません。めげないでください、やるべきことが示されています。
2014年12月17日(水) 石谷牧師記
12月9日の明け方に、私は夢を見て目が覚めました。こんな夢でした。
ひとりの人が釣り糸を垂れています。
私には水中にいるものたちが見えるのです。
水中には、龍、とら、ワニ、へび、熊、ライオン、サメ、
ともかく人間を襲って心臓を食い散らすような恐ろしい動物たちが
うごめきひしめき、いつでも水中から躍り上がって人間を襲うようなのです。
ひとりの人は水中のことは何も見えず、能天気にのんびりと釣り糸を垂れているのです。
なんにも知らないで食べられるのを待っているというような釣り人なのです。
その人はわたしのようにも見えるのです。
なぜそんな夢を見たのか。
たぶん・・・。
12月に入り衆議院選挙の予想を伝える報道にイライラしていました、
前日の8日は真珠湾奇襲攻撃による日米戦争開戦に関する記事を
読み、国の権力者の無謀な暴走をゆるしてしまった国民のありさまを
現在の世相にあてはめ、なにやら暗い気分でした。
国民よしっかりしようよ、というような気分が入り混じった、イライラです。
私は、地震と津波と台風と火山噴火が今後もいつ襲ってきてもおかしくない
日本列島に「原発」は危ないと思います。
あれほどの、そしていつ終息するかも分からぬ福島原発事故を経験した
私たちは、「再稼働」ではなくて別のエネルギーを求め、得ることのできる
エネルギー量に即した経済活動・生活に変わりたい。
巨大なる、人口、その面積、経済力、食糧供給量、核兵器、資源保有量を
持つ国との付き合い方は、お互い戦争はしたくないのだを基調にして、
争いの種を作らない、争いの芽は外交努力で摘む、日頃から友好関係を
深めるに徹してはどうなのか。
国全体のことを考えて行動する人々の層がだんだんと薄くなってきた、
富裕層は現状を肯定し、厚くなった貧困層は今日一日の衣食住に悩んでいる。
このイライラを突き抜けたい。
晴れやかな気持ちになって、自分の仕事に取り組むようになりたい、
クリスマスのメッセージを聞きたい。
次回のアデルフォイの風では、
どんよりとした雲を突き抜けて明るい太陽と青空の光景をご一緒に見たい。
時間をお取りしました。
お読みくださりありがとうございました。
12月10日(水) 石谷牧師記
このごろ食事を自分で作ることがあります。
ご飯を炊き、味噌汁、チャーハン、肉を焼いたり、
魚を焼いたり、目玉焼きを作ったり。
楽しいですね、作っている間に食欲も出てきます。
しかし、どんな料理も塩かげんがむつかしいですね。
塩が多いと食べられず、少ないと物足りず、適量と
思っていても、健康の点からはたいていは過多となっている。
食材を相手に塩かげんを上手に塩梅(あんばい)できるようになる
ことはすごいことだ、食事作り超初心者の感想です。
イエスのことばに、「あなたがたは地の塩である」があります。
地を、世の中、家族、知人、隣人と言い換えてみて、
たとえば、私がボランティアを一緒にしているひとりの仲間にとって、
塩の働きをする、と考えてみます。
「あなたはそのボランティア仲間の塩である」というわけです。
その方が、ご自分の生きることを喜び健やかな気持ちで
日々歩んでいる、さらにその仲間のよいところが引き出されている
ことに、私が少しでも用いられるならば、私はその方にとって「塩」
となれるでしょう。いい「塩かげん」なのです。
しかし、その仲間にとって私の塩が濃くて強すぎるなら、
仲間は閉口し困って、その個性・たまものの成長に私は役立てないことでしょう。
私の塩が弱い場合も同じようなことになるでしょう。
(この文章では、じつは「塩が弱い」ことが気がかりなのです。)
食材に対してもさることながら、私たちが、私とは違うそして誰ひとり同じ人はいない、
そういう隣人にとってよき塩である、よい塩かげんであることはむつかしものだと
自分を省み思うのです。
にもかかわらず、「あなたがたは地の塩」である、とは。
なんともとらえどころなく見えて、不格好にも見える歩みかもしれませんが、
独自で個性を持つ世界に一人しかいないその隣人にとって、私がよき塩である、
ことはむつかしいことだ、
でも、あなたは、私は、ときにはよき塩の働きをできるといいなと思って生活をしている。
このことが私には不思議なのです、そして「地の塩」であるとはこのことかと思うのです。
地を「現在の日本社会で省み見られることの少ない人」と言い換えてみます。
「あなたがたは現在の日本社会で省み見られることの少ない人の塩である」。
現在政府に、そして政府は私たちの選挙の結果であるので、
私たちという社会において、なんと省み見られることのない人たちが大勢いることか。
福島原発事故によってそれまでの生活を一変させられてしまった人たち。
3年8ヶ月にわたる外部被曝と内部被曝によると思われる健康障害を訴える人たちの
ことがインターネット上では出てきています。
このたびの沖縄知事選挙、現職26万票、そして翁長さんには36万票。10万票の
大差をつけて普天間飛行場の辺野古移設をしてほしくないと政府に表明した沖縄の人たち。
沖縄県の全市町村を挙げて政府に提出した建白書と同じように、政府がこのたびも
沖縄の人たちの意思を省みないとしたら、いまの政治はだれに向かって行われている政治か、
すぐにも分かるといいうものです。
低賃金で正規雇用者と同じ労働をしている非正規雇用と呼ばれる人たち、
いったいいつからこんなことが当然視される労働環境の蔓延となったか。
日の丸と君が代を拒んだことで、卒業式にグランドでの駐車場整理を
命じられた教職員たち。十分に食べることができずにいる全国各地にいる年金生活者、
そして母子家庭、社会的弱者とよばれる人たちの現実。
日本社会全体を良くしていこうという意識を持てなくなった若者たちと富裕層、
そこに深まる断絶。武力ではなく対話と軍縮で外国との争いの種をなくそうとの声。
デモ行進を続ける特定秘密保護法を危惧する人たち、原発再稼働に反対する人たちの
声はなかなか政策にならない。
日本社会に生きる人間の現在はどうなっていますか、そして近い将来はどうなりますか。
省みられないのは、わたしでもあります、もしかしたらあなたもかもしれませんね。
私たちから始めませんか。
すこしでも現在だんだんと省み見られることのなくなった、
しかしこの社会で生活を続けている人間の生きることに、
用いられるといいなという歩みを。
私は周りのみなさんを誘っています。
今度の衆議院選挙は、私たちが「省み見られない人の声として用いられる」
グッドチャンスです。
けっして、アベノミクスへの審判だけではないのです。
私たちの思いと納税金の使い方を託す政治家、政党を選ぶ機会なのだから
よく考えて、ともかく投票に行こう、と。
ここまで読んでくださったあなたもお誘いしたいです。
2014年11月21日(金) 石谷牧師記
今日は、16世紀ヨーロッパに起こった宗教改革の、わたしにとっての意味に
ついて考えることでした。イエスの前に人が「個人」として立つことが回復された日、
そしてこのことから始め、常にこのことに立ち帰っていく人々の列が今日まで続いて
いる、私もメノナイト派の一員としてこの列の中にいるのだということ。
イエスの前に「個人」として立てることは恵みである、
そして「すでに恵みを受けたる者になれ」と鋭く自分の在りようが問われることである。
わたしはすでに大いなる赦しの内にある、そうであるから、赦しを受けたる者になれ、
という緊張、背中を押されるような招きを感じます。
宗教改革によって与えられている私のチャレンジです。
2014年10月31日 石谷牧師記
2014年11月から2015年1月までの集会予定をお知らせします。
どうぞご出席ください。
主日礼拝 午前10時30分~
◎アデルフォイ 11/2,11/9,11/23,12/7,12/21,12/28,
1/4,1/11,1/25 12/21はクリスマス礼拝です。
※11月30日の主日は家庭礼拝をお願いします。
※12月7日は礼拝後アデルフォイの美化に取り組みます。お掃除、花植え、
種まき、庭の草取りなどを手分けして行いましょう。
◎発達ルーム「そら」主日礼拝
11/16,12/14,1/18
樹・音(じゅね)の練習もします。
◎アデルフォイ土曜日集会 午後1時30分~
11/18(火),12/27,1/31
◎アデルフォイアシュラム火曜日の集い午前11時~
沈黙と黙想、共同の祈りと対話のひとときです
11/11,11/25,12/9,12/23,1/13,1/27
◎読書会毎月1回 日程は石谷へ問合せください。
◎石谷牧師ジュノーの会への協力日 毎月第2、第3土曜日
◎私たちの教会のホームページでは折々のニュース、
礼拝メッセージ(要約文)などを掲載しています。
周りのみなさんにぜひご紹介してください、よろしくお願いします。
http://tadayuki76.sakura.ne.jp
「広島メノナイトキリスト教会」でも検索できます。
以上