アデルフォイの風

10月のメッセージ(要約) 「先ず、イエスに聞け」

 大学入学は知識と知恵を得ることを保証するものでは、ありませんでした。

求めるこころが必要だったと思います。

 優れた技量を持つ師匠に弟子入りすることが、自分の技量を高めることの

保証には、ならないことを痛感しています。練習に練習を重ねて、体得するだけです。

 キリスト教だけではないと思いますが、宗教に入信することは、問題の起こらない生活、

安心で満ち足りた生活を保証する、ものではありません。

私のことで言えば、キリスト教の洗礼を受けて40年、洗礼を受けることは、悩みに直面しない

保証を得るようなことでは、ありませんでした。ですが、自分を元気づける、立ち上がらせる

岩清水を飲むようなことがあります。

 

 新約聖書 マルコによる福音書4章35節~41節。

 イエスと同じ船に乗り込んで勇んで漕ぎだした弟子たち、漁師出身の弟子は誇らしく櫓をこぐ

ことだったでしょう。ところがどうしたことか、突然に嵐が起こり、波はさかまき船には浸水が始まり、

このままでは沈没してしまう・・・・。

 イエスがともにおりながら、どうして悩み、危機に直面し、なすすべもないような状態になるのか。

 イエスを信じることは、安心、安全を保証するのではないのか。

 

 宗教に帰依(きえ)することは、現実生活での安心、安全を保証するのでしょうか。

 

 旧約聖書の信仰の人々。アブラハムの外国で生き延びていく上での苦労、ヤコブの伯父さんの

もとで味わう悩み、ダビデ王の栄光に差し込む影。新約聖書のイエスの歓迎と敵意のふたつを受けた生涯、

パウロのエルサレム教会と異邦人の地で作られた教会と結ぼうとする涙なしには語れぬ苦労、

キリスト教会歴史上に起こったできごとを思い起こしてください。

 

 ところが、この悩みと不安のさなか、

「インマヌエル」「神がわたしたちとともにいます」ということばが、しずかに聞こえてくるのです。

イエスを信じている、宗教を信じていることは、安心、安全、豊かになること、満ち足りることを、

保証するのではない、

そうではなくて、不安を感じる時、悩みの時、どうしていいか分からない時、「わたしに聞きなさい」

「わたしのもとにきなさい」、「わたしはあなたに必要なことを語る」「行う」、ということば、呼ぶ声が

聞こえてくるのです。

 

 不安、悩みの時、私たちは、だれに、その悩みと不安を打ち明けますか。

だれに、その解決を求めますか。

 

 沈没しそうな船のなかで、弟子たちは、イエスに対して、自分たちのどうすることもできない状態をさらけだし、

なんとかしてほしい、自分たちはどうしたらいいのか、と激しく問うたのです。

 

 私はこの弟子たちのイエスに立ち向かう姿勢に、私たちにもあるといい「信仰」があると感じたのですが、

イエスは弟子たちに「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか。」と語ります、

イエスが「わたしのお父さん」と呼んだ神に抱いていた「信仰」とはどんなだったのでしょうね。

 

 いま、あなたはどんな不安を抱えて生活をしていますか。

私も不安を抱えています。健康寿命でもって長く長くみなさんと交流し社会を見つめていけるだろうか、

そういう生活を支える経済的基盤をどう確保していけばいいか、という「個人生活上の不安」。

そして「社会に感じている不安」、これは個人の基本的人権が巧妙にあからさまに軽視されるように

なってきた昨今の政治、社会的風潮、そして私たちを支える・セーフティネット・社会保障が十分でないことも

原因と思う暴力行為の蔓延、このような状況を生み出している私もその一員であるこの社会の精神文化。

 

 不安を抱えているのであれば、イエスに問うてみましょう。

彼は、見ること、触ることはできませんが、私たちにはその生涯と言葉とがあります。

彼を思い浮かべれば、小さな声を聞くことができます。 「先ず、イエスに問え、イエスに聞け。」

 

 「あきらめる」は「明らめる」、明るくさせる、はっきりさせる、ですね。

私の不安へは、イエスからこのような声が届きました、はっきりさせられた気分です。

長く健康寿命を保ちたいなら、自分のできる範囲で心身に良いと自分が思うことをすればいいのです、

経済的基盤のためには、心身に無理ない労働を続ければいいのです。

社会に対する私の不安の内容は、イエスも解決できなかった、現在までも解決できないでいること。

ただ、聞こえてくるイエスの声があって、「一人の人間を尊重しその尊厳を守ることを自分は行った、

次の世代に引き継いでもらうことを自分は願った、そして営々と引き継がれてきているではないか。」

私もこの営々と続く人々の列に加わればいいのです。

 

 あなたに不安があるのならば、あの弟子たちのように、「先ず、イエスに問い、イエスに聞く」ことだと

思います。

 

                          2014年10月22日 石谷牧師記

 

「危険に満ちた神秘」に囲まれているのだから

 1923年9月1日関東大震災のあと、フランス駐日大使クローデルは、

「大津波、台風、火山の噴火、地震、大洪水などたえず大災害に

さらされた日本は、地球上の他のどの地域よりも危険な国であり、

つねに警戒を怠ることのできない国である」と述べたそうです。

     (毎日新聞2014年10月4日(土)朝刊余録)

 

 記憶し感じたこと知ったことを、生活に活かし続けることは誰にとっても

たやすいことではありませんが、阪神淡路大地震、東北大地震大津波、

広島土砂災害、御嶽山噴火…日本列島には100年単位、1000年単位、

1万年単位で、大自然の営みとしての動きがあるのだと思います。

多くの人たちが命を失った事実に心が痛みます。懸命に続く御嶽山での

安否不明の方の捜索活動、この方たちが早く家族の元に戻されていくことを願います。

この大自然の営みは私たちには、「災害」であっても、あるいは「想定外」と

したくても、それは当の日本列島の大自然からすると、あること、なのだと

痛感した2014年の8月9月となりました。

 

 このことを私たちの生活に活かしたいと思います。

どう活かすことができるのでしょうか。

 危険をいちはやく察することに努める、そして逃げる、避難することは

そのひとつです。このたびの土砂災害のあと、広島県では市町村の首長

による防災研修会がありその一部が報じられました。

「空振り三振でよい」しかし「見逃し三振はすまい」これは避難勧告、避難指示を

ためらうなという内容での言葉です。命がかかっているのです、逃げて、何もなかった、

でいいのです。避難を始めるレベルを今までよりも下げて、今までは「大げさ」だった

レベルからにする、ということにこれからはするでいいのだと思います。

 

 それにしてもと考えます。

「危険に満ちた日本列島」に原発はあっていいのでしょうか。

私たちの生きている間は事故は起こらないかもしれない、しかし、日本列島では

いつ、何が起こるかわからない。原発が稼働すれば廃棄物もたまる一方である。

人間の健康を損なう放射線を出して稼働する原発を次の世代の人たちの暮ら

しのただ中に残していいのか。

私たちは日本列島の営みから何を学んでいるのか。

 

 広島では毎月第1と第3金曜日の夕方から、市民有志によって原発の廃棄を求める

市民デモが続けられています。私は改めてこのデモに参加し続けようと思います。

 

 アデルフォイの庭に秋の訪れの花が今年も咲いてくれました。

「ほととぎす」です。はなびらがホトトギスの腹の斑紋に似ているでしょう、

日本列島の豊かな自然は季節の花を私たちに贈ってくれますね。

その豊かさのなかには「危険もちゃんと含まれてある」のだ、

ことしはそのようなおもいでこの美しい「ほととぎす」の花を

みる私です。

 

 

          2014年10月7日 石谷牧師記

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みんなのいのちを守るにはどうしたらいいのか

 2014年の8月は、みんなのいのちを守るために、

わたしたち市民はどうしたらいいのかを考えることに

なりました。

 8月6日ヒロシマ、8月9日ナガサキ、

日本国民、アジアの人たち、連合国の兵士たちにとって

あまりにも遅すぎた8月15日敗戦日、

ハマスとイスラエルとの戦争そしてガザ地区に

流される市民の血、終らぬイラクの惨状、続くシリア内戦、

世界各地でかろうじて命をつなぐ人々、対馬丸撃沈から70年、

福島県では18歳以下296000人から57人の甲状腺癌・

46人が甲状腺癌の疑い・・・、・・・そして広島土砂災害。

 

 戦争、暴力の応酬、憎しみの連鎖、新たに作られる

戦争の火種、私たちの都合で名づけられる異常気象、

各地で続いて発生する自然災害。

 

 私たちが信じている大いなる方はどこにおられるのか。

この問いへの「自分の経験(いま・ここでのこたえ)」を

それぞれに持っておきたいと思います。

 

 私は、私たちがイエスによってしめされ信じている方が、

あの大地震・大津波、自然災害を引き起こしているのではなく、

また、戦争は人間の仕業・繰り返される過ちであり、

私たちが信じている方は、その惨状のただなかに在って、

はらわたをちぎるほどに嘆き苦しみ泣き、その惨状のただなかで

人間のいのちが救われることのために働く者たちとともに働いて

いる。だから私たちは惨状が生まれぬ文化を作りたい、現に

いまある危機に瀕した命を救いたい。

私はこのように考えるのです。考えるだけではなくて、

神と共に働く者でありたいのです。

 

 8月、気持ちを重くする新聞報道が続く中、

それでも私たちの現実に希望を感じる記事をいくつも

読めたことは幸いでした。その中から、8月24日朝刊に

見つけた写真を紹介します。上は広島土砂災害・避難所で

折り紙をボランティアと折る子どもたち、下はみんなの

楽しみの場所動物園の動物たちを守るアルヒシさん。

 

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             (2014年8月26日 石谷牧師記)

 

 

 

インドの娘たちが教えてくれました

 礼拝堂アデルフォイを宿泊所にして、インドの娘たち七人が、

8月4日から10日まで広島で平和学習と市民との交流をしました。

 7日(木)の夕食は、かねてからの計画の、みなでお好みの

「おにぎり」を作って食べよう会をしました。その場で分かったこと。

それはご一行のお一人が「海からのもの」は食べれない、

においを嗅ぐだけでもその場におれなくなってしまうということでした。

聞けばその日あった交流会で「お好み焼き」を前にして分かった

とのこと。

 おもてなし側の私たちは、その日の午前・午後におにぎり用の

こんぶのつくだに、広島名物牡蠣のつくだに、瀬戸内のふりかけ、

シーチキン、かつおぶし、たらこ、定番ののり他をスーパーで購入

していました。私はこのごろの得意料理・瀬戸内いりこ出し味噌汁を

自宅で作ってアデルフォイに搬入済み、

といういつでもOK、スタンバイOK状態。

 そこで、みなで「海からのもの」は箱に納め、においのあるものは

外に出して、「そうなんだ」「海からのものがだめなんだ」などと笑顔で

語り合って、たのしく「お好みおにぎり夕食会」は終りました。

ごはんのお相手になったもの、

「うめぼし」と「きゅうちゃん(キュウリのつけもの)」でした。

 

 あとで考えました。娘たちの広島滞在中の食事はどんな内容に

なったのだろうか、私たちは毎日毎食さまざまな瀬戸内の恵み、

「海からのもの」をいろいろな形にして食べているのです。

 

 娘たちから教えていただきました。

言葉はかたくなるのですが、「自由における断念」ということ、

娘たちにしっかりとあった「隠れた秩序・見えない秩序」、

「友を愛するということ」。

パウロ流に言うならば、

「だから、もし食物がわたしの姉妹を悲しませるなら、

姉妹を悲しませないために、わたしは海からのものを

食べない。」 (参考箇所第一コリント書8章13節)

 

    (2014年8月15日 石谷牧師記)

 

平和公園の「平和の鐘」

 明日は広島に原爆投下された日から69年。

私は1981年から広島に暮らし始めましたが、

前日から雨の予報になっている8月6日は記憶に

ないほど、毎年のように、

あの日のような夏の大空が広がった朝を迎えていました。

 各国各地から平和公園に集まる人たちのことを思えば

できれば青空をと思いますが、ことしは、人間は天候を

コントロールできない限界を持った者たちであるをきっかけに

して、人間の作ってきた愚かしい戦争の歴史と救いのように

続けられた平和の取組みを静かに思い起こす日として、

8月6日を迎えたいと思います。

 

こんな歌がありました。

    死んだ兵士の残したものは

    こわれた銃とゆがんだ地球

    他には何も残せなかった

    平和ひとつ残せなかった

        (谷川俊太郎と武満徹)

 いったい人間と人間の間の争い、

国と国の間の紛争と国益の衝突を、

人間どうしが敵味方に分かれての殺し合いで解決できたのでしょうか、

できるのでしょうか。勝者と敗者、とてつもない犠牲と悲しみと損失、

蒔かれてしまう次の戦争の火種。

 

命令であったから殺し合った、

法律で定められた任務であったから殺し合った兵士たち、

息子むすめを、友を、恋人を法律だからと自分に言い聞かせて、

送り出さざるを得なかった私たち市民。

あやまちは繰り返してはなりません。

自分たちの武器は自衛のため、彼らの持っている武器は攻撃するため、

などと思考停止になってはなりません。

 

 自分に都合の良い口実はいくらでも作れるでしょうが、こと殺し合いだけは

これからはすまい、わたしたちは外交解決をどこまでも追求する、

この思いを新たにする明日を迎えたいと思います。

 

 紹介する写真は平和公園内にある「平和の鐘」です。

国境がありません。私たちの子どもたちが、孫たちが、

あたかも国境のない、地球市民として、これから人類が直面するで

あろう困難を、地球市民として解決できるようになるためには、

現在の大人たちが自分なりの理想と夢を作って行動してほしい、

そんなメッセージを「平和の鐘」から聞くのです。

      (2014年8月5日 石谷牧師記)

 

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8月、9月、10月の集会予定

 梅雨が明けると本格的な夏ですね。

体調を気遣い、明るい気持ち、元気な日々を過ごしましょう。

2014年8月~10月までの集会の予定をお知らせします。

主日礼拝 午前10時30分~

◎アデルフォイ 8/10,8/17,8/24,8/31,

9/7,9/21,9/28,10/5,10/26

※8月3日の主日、石谷は九州に行きます。

この日は家庭礼拝をお願いします。

※毎年行っている8月6日夕べの祈り会の場所・時刻を変更する

予定です。参加予定のみなさんは石谷までお尋ねください。

※9月28日は礼拝後アデルフォイの美化に取り組みます。

お掃除、花植え、種まき、庭の草取りなどを手分けして行い

ましょう。前回5月のときには二人が前日から宿泊して、

修養会の雰囲気でたっぷり話すということができました。

今回もぜひ実現したいです、ご希望ありませんか。

※10月12日の主日、石谷はJMFセミナー/第8回平和セミナー

に出席するため東京行きます。この日は家庭礼拝をお願いします。

◎発達ルーム「そら」主日礼拝 

9/14,10/19,樹・音(じゅね)の練習もします。

◎アデルフォイ土曜日集会  午後1時30分~

8/30,9/27,10/25

◎アデルフォイアシュラム火曜日の集い午前11時~

  沈黙と黙想、共同の祈りと対話のひとときです

8/12,8/26,9/9,9/23,

10/14,10/28

◎読書会毎月1回 日程は石谷へ問合せください。

◎石谷牧師ジュノーの会への協力日 毎月第2、第3土曜日

 

          (2014年7月20日 石谷牧師記)

 

花、ささやく

 

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 「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、

神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よく

してくださらないはずがあろうか。マタイ6:30」 イエスと花は、こう

ささやく。

 人間が、自らの手で人間社会に作る現実は、人間に厳しい。

なぜこうなのだろう、なぜもっと優しくなれないのか。

年収1千万円を超す者には残業代を支払わないでよいような話しが交わされ

始め、中小企業は1千万円ではなく減額したらどうかなどと話しが加わる。

こんなことから数えて切りがないほどに、最近、私たちの暮らしの現場は、

人間の命、時間、その土地に育まれた文化や習俗、人の繋がりに、

尊敬を払うことなく、そもそもお金に換算することも慎重であってほしいのに、

あまりに安く見積もられ過ぎではないか。

 

 イエスと花のささやきは、やがてイエスの行動となった。

「ささやき」を実現せねばならない厳しい現実がその時もあった、

イエスは語るだけではなく、行動して実現しようとした。

 

 「私」「あなた」「教会」が「沈黙」していることは、

昨今の風潮を支持し応援することになっている、そうは思ってなくても、

いままでの歴史、どの国でも、「沈黙」は現政権への無言の支持となる。

きょうの、人間の、私たちの尊厳、いのちと暮らしの平安は、守るものではなかった、

昨日までの尊厳と平安は昨日で終っていたのだ。

きょうの尊厳と平安は、きょう神ととともに私たちが作りだすものである。

この簡明な真実を痛切に感じるこのごろです。

「平和を作りだす者は幸いである。

 彼らは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)

声を上げましょう、行動しましょう、

でないと石が叫びます、石が行進を始めます。

  (2014年7月9日 石谷牧師記)

6月の礼拝メッセージ(要約)

6月の礼拝メッセージ(要約)

 

          「みんなここにおっていいんよ、わたしも一緒にいるんだよ」

 ガンジーは自分は遠ざけたいと考えていたことでしょう、七つの人間のすがたを語っています。

原則なき政治/道徳なき商業/労働なき富/人格なき教育/人間性なき科学/良心なき快楽/犠牲なき信仰。

現実には、ガンジーの願いに反して、彼は自分の遠ざけたいものに囲まれながら、自らの内にもこれを認めながら、

七つの人間に抵抗する生活が続いたのだと思います。

 自分の願いのようではなく、むしろ拒みたいことに囲まれながら押しつぶされそうになりながら、これに抵抗する

生活をしているのは、あなたもそうではありませんか。

 私のことで言えば、どうしてこのようなことが起こるのだろうか、しかもずっと続いて、私の信じている神さまはこの

事態をどう考えておられるのだろうか、関わってはくださらないのかという問いがしばしば生まれます。

 

 「どうして自分の願っているようにならないのか。」

私はイエスの人間を見つめるまなざしに救いと啓発のようなものを感じています。

たとえば「なぜならば父は(神は)、悪人たちの上にも善人たちの上にも彼の太陽を上らせ、義なる者たちの上に

も不義なる者たちの上にも雨を降らせてくださるからである。(マタイ福音書5章45節)」 私は自分のことを善人と

か義なる者とかと思っているわけではもちろんありません、とてもそういう者ではありません、そうではなく、そうだ、

みんなおっていいんだ、四者四様の人間が、私も、一緒におってもいいんだ。

神はどんな人間に対してもお前はおらなくてもいいと言われる方ではない、むしろ、人間はおのが自由を使って

そこに在り続けることが認められている。これがイエスが親しくアッバ(お父ちゃん)と呼びかけた神から示されて

いる神の人間を見つめるまなざし。そしてイエスに実現したまなざし。

 

 「人間はおのが自由を使ってそこに在り続けることが認められている」から、私のような人間もいるし、私の願っ

ていないことをしようとする人たちもいる。

しかし神が願っていることがある。それはお互いが自由を使ってそこに在り続けることを認め合うこと。このことに

立つなら、自分の存在、利益を妨害する者に直面した時にどう応じていくかという、切実な問いとの格闘が始まり

ます。誠実な格闘をしたいと思います。

イエスが苦悩を経て選んだ実践。イエスを殺す自由を行使しようと、剣と棒を持って取り囲んだ集団に対して、

非暴力をもって抵抗し捕えられるを選んだ。

 

 私は、正義や自衛おのが利益という言葉をあやつって、相手にも正義、自衛、おのが利益という理由が

あるにもかかわらず、徒党を組み集団になって武力行使に傾きがちになる人間が、結局は暴力の連鎖に

自ら苦しむという、繰り返されるあやまちに囲まれながら、

あなたは、みんなここにおっていいんだ、それを実現させる歩みを続けてほしい、との促しを新たに聞くことです。

 私たちはいま、地球上のすべての人間みんなここにおっていいんだ、の風が満ち満ちるまでの途上なので

しょう、が、この風はすでに世界に吹き渡っています、

この風に生かされこの風を喜び、この風を運んでいきましょう。

 

                            (2014年7月4日 石谷牧師記)

 

 

楽しい読書会でした

 礼拝堂アデルフォイにて、私が勤務していた女子大学の卒業生二人と読書会を続けています。

集まって一冊の本を読むのではなく、各自が関心を持って読んだ本の内容と自分の感想を

述べ合う時間を過ごしています。

 今日は久しぶりの会となりました。私の読書はキリスト教関連を中心にしてかなり偏っていると感じて

います、それで二人の方からの読書の報告は今回も新鮮で新しい発見、気付きがありました。

 

 本日、卒業生が紹介した本の中から、特に私の心に残った文章をご紹介します。

沢村貞子著『貝の歌』(河出文庫)女優である著者が自分の歩んできた道を振り返ったエッセイのような本です。

場面は1945年8月15日、昭和天皇の敗戦宣言の放送(玉音放送)を隣組の人たちと聞いたあと。

(著者)私は、ハッと我にかえって、義妹の顔を見た。義妹の目がパッと輝いた。私たちは、母の手を

引っ張って家の中に駆けこんだ。

「終ったのよ、お母さん、戦争が終ったのよ」

「ほんとうに終ったのかねえ」

〈義妹)「終ったのよ、終ったのよ、私の旦那さまが帰ってくるのよ」

私と義妹は手を握って家の中をぐるぐる踊りまわった。

「もう空襲もおしまいよ」

家中の暗幕をはずして歩いた。

「・・・・・でも日本が敗けたんじゃこれからたいへんだろう」

がっくりすわりこんでいた母が心配そうに声をひそめた。

「そりゃあたいへんよ、きっと・・・・でもいくらたいへんでも戦争して殺し合っているよりましでしょ」

「そうよ、わたしもそう思うわ」

そう言いながら、義妹はいきなりバケツを持ち出して掃除をはじめた。私も勢いよく廊下の雑巾がけを

はじめた。母までが「よいしょ」と立ち上がって、窓のガラスをグイグイふきだした。みんな、なんとなく

からだをうごかさずにはいられなかった。

 

「いくらたいへんでも戦争して殺し合っているよりましでしょ」これは痛快、いい場面だと思います。

女性たちが、もう未来を引き寄せ始めた、たくましい躍動を感じました。

アデルフォイでの読書会は、狭くなりがちな視野を広げてくれています。

                      (2014年6月27日 石谷牧師記)

写真は三人が紹介した本。

 

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「神が人間をどれほどに大切にしていることか」、のことばと共に参加しました

 わたしたちの神は、悪人たちの上にも、善人たちの上にも彼の太陽を上らせ、

義なるものたちの上にも不義なるものたちの上にも雨を降らせてくださっているではないか。

これはイエスに示されていた、神が人間をどれほどに大切にしているか、のことばです。

(マタイによる福音書5章45節) 悪人とか善人とか、義なる者とか不義なる者とか、神の恵みに

生かされることに、人間側に備えておくべき条件なし、悪人も不義なる者もかけがえなきいのち。

嬉しいですね、ほっとします。私は悪人ですし、不義なる者になるのですから。

救いがあります。私たちの神が善人と義なる者だけを大切にされるのではないということ。

この四者、地球上に仲間として生きとっていいということです。

 

 神が人間をどれほどに大切にしているか、は私には次のように広がっていきます。

暴力によって失われてよい命はない、お互いが言い分を持つ自分の利益を守り追求する戦いで、人間が死んではならない、

粘り強く利益を調整する交渉を重ねることに徹する、そしてこのことをまずは誰が実行するか、

私でしょう、私たちの教会でしょう、私たちの日本でしょう、そしてイエスでした、というふうに。

 

 国の政治指導者も国民です、しかし私たちも国民です。お互いの理想、願いを表していいのです。

だから、どうしても人間のいのちを粗末にしがちになる人の世が、だれにとっても安心して寿命をまっとうできるようになるために、

「私はこう思います」という声を伝えたい。

 

 このような思いをもって、私は6月20日「集団的自衛権の行使容認反対」、「秘密法廃止」、

「原発の再稼働反対」のひろしま市民デモに参加しました。

自衛、防衛とかの言い方がされても、現実には現場では戦場では、人間が殺し合うことに間違いがありません。

どんな場合でも、人間は殺し合うのではない解決の方法を見出したいと、私は思います。

私たちは、ちから、武力に頼って国を守るに舵を切るのではないなら、

どんな方法で中国、ロシア、諸外国との利益を調整するのか、との問いをこれまでも抱えてきました。

これからも、すくなくとも、あなたまかせ、政治家任せにはしない歩みをしたい、と思っています。

                     (2014年6月24日  石谷牧師記)

 

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